ギャラリーA・C・S(名古屋) 2019年7月6〜20日
「1971年 23歳、スペイン・マドリッドでゴヤの版画と出会った」。案内のはがきにそう記されていた名古屋の画家、市橋さんの初期の銅版画、シルクスクリーンを紹介する展示である。
展覧会直前、70歳で他界されると誰が思っただろうか。旅立たれたのは6月25日。前日の6月24日には同じ名古屋の画家、坪井孟幸さんの工房で、今回展示された銅版画作品「異邦人」の刷りを確認する作業を坪井さんとA・C・Sを運営する妻の佐藤文子さんと一緒にしていたという。市橋さんがスペインで取り組んだ最初の銅版画作品である。肺がんが再発し、治療を続けていた。25日早朝、不意に自宅で倒れ、帰らぬ人になってしまった。
今回の展示は、別の企画展が流れ、画廊のコレクション展を予定していたところ、市橋さんが希望し展示したものだった。若き20代に5年半を過ごしたスペインで制作された原点とも言える作品で、可能な範囲で日本に持ち帰られた。1988年に愛知県一宮市の織部亭で個展を開いた時に一部を展示した以外には、ほとんど見せることがなかった最初期の作品である。今回のように一堂に並べるのは初めて。病気の進行もあり、妻の佐藤さんにはカタログ・レゾネ制作に繋げたいとの思いもあったようだが、市橋さん自身は生前、「いいよ(レゾネを作る必要はない)」と言われていたそうである。
市橋さんは1948年、岐阜県羽島市生まれ。自由を求め、高校では授業より図書室に通い続ける生徒だった。円地文子やドストエフスキーなど棚の端から端までむさぼり読んだという。佐藤さんとは共に通っていた名古屋アートスクールの上原欽二さんの教室で出会い、21歳で結婚。1971年、22歳で佐藤さんとマドリッドに渡った。日本にいるときも、中部独立展に出品していたが、日本で描くことにどこか閉塞感を感じていたのだろう。同じ頃、展覧会で見たゴヤの作品への憧れが高まっていた。
2年の滞在予定だったが、1年半で貯金を使い果たした後、生活費は佐藤さんがマドリッドの日系商社に秘書として勤務して賄った。日本で描くことに行き詰まるとともに、一人でいること、自由と可能性を求めていた。
スペインで影響を受けた一つが、ゴヤの作品。中でも、人間の悪徳や残酷さがグロテスクに表現された版画集「ロス・カプリチョス」(1799年)だった。その奇想、過激な作品群の怪奇的、風刺的、幻想的な世界に、人間の奥深い内面を見たのだろう。併せて、アンフォルメルの画家、フランスのジャン・デュビュッフェ、そして、クエンカのスペイン抽象美術館で見たアンフォルメル作家の一人、アントニオ・サウラの作品にも引き寄せられた。
市橋さんは、自身の作品が何を表現したものかについてあまり発言するほうではなかったが、一貫して人間を描いていた。人間像をデフォルメし、時にユーモアを込めながら、人間の深奥にうごめくものをまさぐるように掘り下げ、内面を探求し続けた。核心のテーマについてあまり触れず寡黙になったのは、たとえ人間像を描いたとしても、自己の内面こそは見る人が鏡のように見つめるべきものであって、作者が押し付けるべきではないと言いたかったのかもしれない。
スペインに渡って独学で銅版画技法を吸収し、最初に制作した「異邦人」には、市橋さんが創作し続けた作品の原形のような、純粋な思いが凝縮している。胴体のようにも地面にも見える隆起した画面下部の塊から、増殖を起こし、はち切れんばかりの生命力を内在させた不定形の突起物が生起し、それが顔のように見える。空間との緊張感を持ちながらも、すっくと立つ。様々な思いを抱えながら、何ものにも耐え、一人自立して生きようと決意した市橋さん自身とも見える。
日本を離れ、スペインに移った市橋さんが異邦人そのものだった。この作品が人間の内面という、その後、市橋さんが亡くなるまで一貫して探求するテーマの出発点となった。謹んでお悔やみを申し上げます。
また、2020年の「市橋安治展 ギャラリーA・C・S 没後1年・生誕72年〜銅版画、ドローイング&油彩〜」、2021年の「市橋安治展 没後2年・生誕73年 ’90年代~2000年代の表現『人物像から顔へ』」も参照。