ギャラリーA・C・S(名古屋) 2021年8月17〜28日
市橋安治
市橋安治さんは1948年、岐阜県羽島市出身。2019年6月、ギャラリーA・C・Sでの個展の直前に他界された。
本展は、市橋安治さんの没後2年の展示である。同ギャラリーでの没後の展示は、3回目となる。
もともと、休廊期間のお盆に近い8月20日が市橋さんの誕生日だったこともあって、生前から、妻でA・C・Sの画廊主でもある佐藤文子さんが市橋さんとともに、この時期に市橋さんの展覧会を組み入れていた。
没後も、この慣例を引き継ぎ、佐藤さんが毎夏、テーマを決めて展示を続けている。
市橋さんの過去の展示や、来歴、作品の影響関係などについては、2020年の「市橋安治展 ギャラリーA・C・S 没後1年・生誕72年〜銅版画、ドローイング&油彩〜」、2019年の「市橋安治 初期の版画 1973〜76 市橋さんを偲んで」も参照してほしい。
’90年代~2000年代の表現「人物像から顔へ」-銅版画、ドローイング&油彩-
没後の展示では、2019年は、スペインに渡った1970年代前半の作品を紹介。2020年は、滞欧期の後半から1976年の帰国を挟んで83年頃までのカラーエッチング、ドローイングに、油彩4点を加えた構成である。
これらの時期は、主に、ゴヤや、スペインのアンフォルメルの作家、アントニオ・サウラなどの影響が強くあり、顔のようなイメージや、人物像をモチーフにデフォルメし、深く人間の内面を抉り出すように描いていた。
今回は、その後のおおむね1990年代から2000年ごろまでの「顔」をモチーフにした作品が中心になっている。
市橋さん夫妻がスペインから帰国したのが1976年。前回の記事でも書いたが、帰国後は、かなり画風が変化している。
帰国後の70年代末以降、80-90年代は、中日展、自由美術協会展などに出品したが、そうした公募展向けには、デフォルメした人物像や群像を描き、具象的な分かりやすい絵になっていった。それらは、ときに社会風刺的な要素もあった。
一方で、ゴヤやサウラなどの影響を強く反映させた作品を描かなくなったわけではなかった。
暗く沈んだ画面の中に不定形な人間の姿が現れる作品も、外で発表することはなかったが、描いてはいた。
それらの中には、不定形な形象の内部に、夥しい人間の顔、あるいは細胞らしきものが増殖するイメージへと展開した作品もあった。
つまり、市橋さんは、帰国した70年代後半から、80年代、そして、90年代半ばごろまで、一方で、比較的明るい色彩の具象的な人物像、あるいは群像を描き、他方で、暗く歪んだ形象の中に顔と目、あるいは細胞のようなものが蝟集するようなイメージを表出していた。
いわば、2つの系統の作品を同時並行で制作していたわけである。公募展など外向けには穏やかな具象絵画を描き、それとは別に、暗たんとした、おどろおどろしい絵も描く。
1985年には、自由美術の会員に推挙されているので、そうしたことも関係しているのかもしれない。あるいは、日本に戻り、人間への見方が微妙に変化したのかもしれない。いずれにしても、制作上の葛藤があったのだろう。
そして、小さな顔や目あるいは細胞が増殖するような絵画では、それらが画面全体に広がり、オールオーバーな様相を呈した作品も手がけるようになる。
ギャラリーによると、実は既にそうした作品は1977年ごろから描いていたらしい。
一方で、デフォルメした人物像、群像を描き、陰では、細胞のような顔のイメージが画面全体を覆って増殖する作品を描いていたというのが、なんとも興味深い。
オールオーバーな作品は、床に厚紙を置き、ドリッピングで何色かの絵具を飛散させた後、その絵具の滴りの中に目を入れるように描いている。
さらに網目のような線や、ゲジゲジ模様を加えた作品もある。いずれも、小さな顔といっていいものが、細胞が連鎖したようになって全面を覆っている。
中には、スペインの新聞を下地に貼った作品もある。
これまで見た市橋さんの作品では、顔や人物を不定形として描いていても、なお人間らしき形象が残っていたが、これらは人間が解体され、ほとんどオールオーバーに近づいている。もちろん、1つ1つの細胞のような単位は顔ではあるが。
1994年ごろの新聞記事の中で、市橋さんは、(人物の全身像ではなく)原点回帰し、やはり顔を描きたいという趣旨の発言をしている。
そして、1994年度の自由美術展では、初めて、こうしたオールオーバーな油絵作品を出品する。
今回出品された「無題」(1978-1994年、写真上)は、このときの出品作ではないが、同じころの類似作品である。この絵画は、市橋さんが1978年に制作に取り掛かり、最終的に1994年まで加筆したことが分かっている。
だが、市橋さんが、オールオーバーに顔が細胞分裂していくように広がる絵画を描き続けたかというと、そうでもないようだ。
今回展示された他の作品は、スペイン時代の作品の雰囲気をしのばせながらも、重々しい印象から離れ、少し吹っ切れたように自由に描いている。
黒地に大きくシンプルな線で表した顔や、アール・ブリュット風に描いた顔も、軽やかでユーモアがにじむ。
「肖像」と題された1990年代の3つの作品は、小さな顔が蝟集して1つの肖像のようになって、黒い地面あるいは台座の上に立っている。
具象的な肖像ではないが、内面にさまざまな「顔」をもった複雑な人間の姿が描かれている気がする。それらは、哀愁も感じさせ、日本の社会の中で戸惑いながら、四方八方に視線を送っている。
背景が明るいためか、いささか不気味だとしても、どこか悠然とした現代的な空気を漂わせている。飄々としていて、重いとか、暗いとかいうわけではない。
スペインから帰国し、画風を変化させ、公募展にデフォルメした人物像や群像を出品してきた市橋さんが、スペインで出合った美学を拠り所に探っていたものが、「顔」をテーマに、より自在に多様に展開したのが、1990年代かもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)