愛知県美術館展示室7(名古屋) 2020年1月3日〜3月15日
横内賢太郎さん(1979年千葉県生まれ)は、2000年代に入って気鋭の画家として注目され、筆者もケンジタキギャラリーで個展を開くようになった2007、2008年頃から個展やグループ展で作品を目にするようになった。
オークションカタログに掲載された工芸品などのイメージをサテン生地に描き、西欧の異国趣味に根ざす工芸品への嗜好、所有・投資対象としての美術品への欲望、眼差しの対象である絵画そのものなど、モチーフは1つでもそこに多層的な意味性を取り入れ、欧米から輸入された絵画への眼差し、あるいは、美術作品に抱く関心や価値観、文化の表象を批評的に捉え直す。欧米をルーツとする絵画を日本人、アジア人の一員として描く自己意識を批評的に問い直しているところもあって、2014年からは、インドネシア・ジョグジャカルタを拠点に制作している。
小企画ながら、日本にいた頃の作品とインドネシアに渡った後の新作を展示室と廊下部分に展開させ、見応えのある展示である。この記事では、2020年1月4日に同美術館で開催された横内さんのアーティスト・トークと座談会で話された内容とともに展示を紹介する。
愛知県美術館のWEBサイトによると、横内さんは、インドネシアで、それまで使ってきた絵画の染色技法とも重なるろうけつ染めのバティック(更紗)や、アジア諸国に通底する表現に関心を向けた。イスラム教の人が多いインドネシアを代表する伝統工芸品であるバティックは、実は起源がヒンドゥー文化で、オランダの植民地時代に産業的に発展するなど、複数の文化の衝突と交差の中で育まれたものだという。
横内さんがバティックをモチーフに展開するインドネシア渡海後の作品も、それ以前から取り組んできた作品と同様、「文化的接ぎ木」というテーマをもつ。インドネシアのアーティストと共同制作した映像作品も展示され、展示空間の全体から、異なる背景を持つ技術や文化の出合いの豊穣さが伝わってくる。既に終了したが、関連展示として、名古屋のギャラリーで開催された「Tilted Heads インドネシアのP(art)Y LABとD.D.(今村哲・染谷亜里可)のコラボ N-MARK 5G」があり、こちらも面白かった。
横内さんによると、2007年、京都市立芸術大学大学院博士(後期)課程油画領域を修了後、三重県いなべ市を拠点に制作。画家・吉本作次さんのスタジオで制作しながら、日本の絵画への文化的影響関係、歴史的背景を常に考え続け、異文化が影響した過渡期的な文化、折衷された表現に関心を持ってきた。最初は日本が江戸時代の鎖国下で唯一外交関係を維持した欧州の国で解剖学や蘭学を伝えたオランダ への渡航を考えたが、チャンスがなく、オランダ東インド会社のアジアでの本拠地があったインドネシアに興味を持つようになった。
サテン生地に染料で描く横内さんのスタイルは、インドネシアの伝統工芸品のバティックに似ていた。そうした文様文化を学ぶとともに、オランダを介して日本へ欧州文化が伝わった中継地でありながらイスラム文化という異質な文化があるインドネシアという環境の中で、非西洋圏の絵画のあり方、アジアおける絵画を考えながら制作することに強い関心があったという。2013年に初めてインドネシアに行き、翌2014年から、ポーラ美術振興財団在外研修員としてインドネシアに滞在した。
横内さんによると、光沢のあるサテン生地に染料で描いた旧作は、絵画の範疇にありながらも工芸的な素材感があった。目指したのは、そうした絵画性と工芸性をはらんだ作品に、歪んだ欲望の対象であるオークションカタログの壺を絵画のモチーフとして取り込み、視覚的な官能性と批評性の両立を図ること。それによって、メタ絵画ともいうべきか、絵画についての絵画、美術についての美術という批評性を作品に持たせようとしたのである。
その意味で、ただ対象を無批評に再現するのではなく、絵画の中にもう1つの絵画のフレームを作って色彩の反転、図像の天地の反転などのほか、染料を生地に浸透させるという物理的な現象も含めて文化的な接ぎ木を試みることで、あえて、ちぐはぐさを出している。
それは、江戸時代に西洋的なパースペクティブ等を模倣し、それまでの日本の画材、価値観、風土に合うように変換・融合させた和洋折衷画である秋田蘭画のような接ぎ木を現代に試みるようなところがある。自分の絵画の中で、意味、欲望、履歴、背景、体系の異なるもの、変換したイメージを取り入れることで、そうしたプロセス、すなわち絵画的な出来事に自ら向き合い、いくつものレイヤーをコラージュのように並置するのではなく、サテン生地に染み込ませることで最終的に1つの平面に融合させている。
横内さんは、トークの中で、「赤道に近く日差しが強いインドネシアでは、コントラストが強く、有名な影絵ワヤン・クリの世界と日常の色彩が似ている」と話すなど、現在の制作環境やジョグジャカルタの文化、歴史についても紹介。インドネシアでは、ポーラ美術振興財団の研修員として、インドネシア芸術大学(ISI)ジョグジャカルタ校に籍を置き、イスラム、バティックなどの文化のほか、現地の美術教育にも関心を向けた。
滞在の1年間が終わる頃には、アーティスト・ラン・スペースを開設。インドネシア在住の造形作家、廣田緑さんと協力し、初めての展示会も開いた。横内さんは、インドネシアでの6年ほどの生活について「人間が自然に生きられる、人間性を大事にできる」場所と述べ、併せて、日本社会での生きづらさ、居場所の無さについても言及した。横内さんによると、インドネシアでは、アートの垣根が低く、アートが日本より多くのものを含んでいる。
横内さんによると、インドネシアで制作した今回の展示作品は、バティックの文様パターンを使い、パギソレ(パギは朝、ソレは夕方のこと)という1枚の布に2つの異なるパターンを入れる方法を取り入れた。パギソレは戦時中の物資が少ない時代に巻き方などを変えることで、1枚の布で朝と夜に違うパターンを楽しめるかというものだった。横内さんも、絵画にそうした構造を取り入れ、作品に天地を逆にした異なるイメージを描写。ジョグジャカルタのバティックで基本的な色彩であるインディゴの藍色、木の皮から取った茶の染料、布の白色を使って作品にしている。
紙の作品では、インディゴのペーストを紙に塗っているが、この藍自体がオランダの植民地時代に強制的に栽培させられた作物だったという。横内さんは、そうした歴史的なものを含めた土地固有の素材を使って絵画を制作する。
インディゴのざらざらしたテクスチャーは、以前使っていた白亜地に近い。インディゴペーストの上にテンペラで描いているが、身体性、官能的な部分も大事にしている。モチーフのイメージは、戦時中など歴史的な人間の振る舞いを反転させて引用。ここでも、文化的な接ぎ木を試み、インディゴの地に、欧米人がアジアを見る眼差し、アジアの人が自分たちを見る眼差しなどを意識しながらイメージを変換・融合させて出力を変えることで批評的に捉えている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)