Gallery HAM(名古屋) 2020年7月18日〜8月29日
山田さんは、1978年、京都府生まれ。大阪を拠点に関西、愛知、東京などで作品を発表する画家である。2018年に、VOCA展で奨励賞を受賞。2019年には、東京オペラシティアートギャラリーの若手作家育成展覧会シリーズ「project N」に出品した。
ペインタリーな作品であり、具体的なイメージを描きながらも、それが背景と一体化している。見る人にとっては別のイメージへと変換され、予期せぬ形象として現れる、そんな作品である。
ギャラリーの神野公男さんが2020年4月に他界した後に開かれた最初の展覧会である。初日には、ギャラリーに遺影が飾られる中、訪れた美術ファンが神野さんを偲び、山田さんも、神野さんとの思い出を振り返った。
イメージを追いかけると、それをすくい上げた指の間から、こぼれ落ちてしまう謎めいた絵画。今回は、人物画、肖像画というスタイルで描かれているが、それはあくまできっかけとなった形式に過ぎない。描かれている顔は、特定の誰かではない。画面は野性味あふれるとともに、人間の弱さ、傷つきやすさ、恐怖、不安を包むような折り合い、豊潤さを志向している。
これまでの個展では、絵画と絵画が隣り合うことで、個々の作品とともに空間全体が鑑賞者に伝わるように展示していた。肖像画のスタイルを借りた今回は、作品点数を絞って、1つ1つの作品と対峙できるようにした。
山田さんの作品の大胆さ、豊潤さ、力強さ、勢いは、どこから来るのだろうか。
まず、顔という具象的で意味の強い存在感の形象がそれで完結せず、というよりも、むしろ、背景の大地や風景、自然、植物とつながっていることに注目したい。
顔が異形として、背景と結合しているのではなく、あるいは、人物が風景や空間に浮遊している、つまり、地に対して図としてあるのではなく、モチーフが顔であると同時にただの顔でなく、背景が風景であると同時にただの風景でなく、部分の色面が色面であると同時にただの色面でなく、筆触が筆触であると同時にただの筆触ではない、そんな絵画の豊潤さと言えばいいのだろうか。
画面を見ていると、あらかじめ定めたゴールに向かって描いているという印象はない。壊しては築き、壊しては築く、の反復があるように思える。下絵のようなものは描かないようである。描く前にイメージはあるものの、実際に描き始めると、壊しては描くプロセスに身を投じる。
それは、描くという行為が、何かが起こる、何かに出合う、何かに導かれるという「出来事」になっているということである。
そして、今回は、何年も前に描いた作品の上に、全く別の絵を描いた作品が多く出品された。ある絵の上に別の絵を描くというこのスタイルは、壊しては築くという山田さんの描き方と、ほとんど同じことを言っている。つまり、それらは、壊し、築くという反復のスパンの違いにすぎない。
壊しながら描き、それを繰り返すことで、破壊と構築の渾然となったレイヤーを重ねていくこと。それをある目的に向かって試行錯誤している、というよりは、そうした過程そのもの、そこから生まれる葛藤と豊かさが山田さんの作品なのである。
だから、一見、山田さんの絵画は、一貫性、合理性は持っていない。作家自身が、出来上がった絵画を、表面的に見えているイメージだけでは捉えていない。むしろ、そこに至るまでの葛藤のレイヤーを内包した絵画性である。
山田さんは、ルオーが好きだという。時間を忘れるぐらいにキャンバスに向き合い、厚く塗り重ねられた作品の成り立ち、その秘密は、作家にしか分からない。そうした秘密の過程は、生きていくことを投影させながら、それを包み、肯定する絵画の豊かさを希求する中で、作家の魂のようなものが転写されていく出来事である。
そのことは、山田さんが、筆者に、絵を描くのは運命的なこととである、と語ったこととも重なる。何かに導かれている。だが、それは葛藤でもある。
描きたいモチーフを、描きたいイメージに向かって描いているわけではない。画面を壊しながら、ある線を引き、ある色彩をのせる。
何かを捨てていきながら画面から何かを受け取り、そうして何かを選びとることは受動的でさえある。画面との相互作用の中で受動的な行為を積み重ねながらも、能動的なことを発動しないと、絵としては仕上がらない。これはまさしく葛藤である。
「中動態」のようなありようなのかもしれない。画面に導かれ、あるいは、自分の内なるものに導かれて描く。
だから、山田さんは、自分自身が、絵と描いている自分から、おいていかれることがあるとも語る。描くことが何かに委ねられて、主体としてとは異なる別のところで描いているところがある。
描いているうちに、こだわりが出てきて、つまり、意識的に描きすぎた色やタッチがあると、あえて絵の具をはぎ取り、絵を生き返らせる。逆に、予期せぬものが到来し、絵が活気づくこともある。
山田さんは、その描く状態は「狂気」ではなく、シンプルになることだとも語る。こだわりを捨て、強い主体性を放棄しながら、危ういバランスの上を歩く。苦しくもあり、楽しくもあり、その矛盾、葛藤は、生きることそのものかもしれない。
山田さんの作品に、何か大きな物語、意味があるわけではない。意味がないというのは、同時に、モチーフが山や海、植物、大地、荒野、人間、動物、植物など、普遍的、根源的なものであって、それらが意味が固まらないように描かれているということでもある。
こうしてみると、具体的なイメージを描きながら、それが地=背景と一体化しつつある、というのは、よく分かる。それ自体で意味が強い「顔」は、造形が壊されていき、髪の生え際などから境界領域のようになって背景と境目がなくなっている。
風景の中に、こういう人物がいるという絵ではない。筆も使うし、タオルも手も使って、どちらかというと大きなタッチで荒々しく描かれる絵画には、野性という言葉がふさわしい。
人物が着ている青い服は、池にも見えるし、髪が背景の草むらにも見えてくることもある。顔の中に山や樹々があることもあるし、顔は大地そのものでもある。目が池に見えることもあるかもしれない。目の下のくまのような箇所は、岩のようでもある。筆触は入れ墨に見えたりもする。
見る人に開かれた絵画である。答えはなく、見る人との対話を促してくれる。描かれた人物との会話だろうか? 風景との会話? その中にある事物? 断片に向かう視線と? 筆触と? 色彩と? 線と? それも自由である。空間に没入もできるし、冷静に対峙もできる。
壊しつつ築き、築きながら壊す行為、あるいは、そうした出来事として生まれた絵画は、結果として、人物などが変形していることもあって、あるいは、暗色を多く用いているためか、どこか不穏な気配、不安な感情が表出されているようにも見える。だが、それだけだろうか。
山田さんは、個人の記憶とともに、脳からの命令をできる限り離れて描いている。物語性、意味性はなく、あるのは、描くことの葛藤と生きることの葛藤、人間の弱さとそれを乗り越える力、不安と希望。それは、彼女自身がつくる詩的形式を視覚化したような世界である。壊しながら、築くとは、そういうことである。
私たちは、分節された言葉とイメージの世界で、傷つき、不安に苛まれながら生きている。だが、希望を失っているわけではない。絵画は、それらを包み込んでくれる豊かなものである。
山田さんの絵画のイメージは、ある特定の意味、物語を担わされた消費のためのものではない。山や海、植物、大地、荒野、人間、動物など、普遍的、根源的なものが、名前を与えられて分節される前へと遡った無垢や野性の世界である。その危ういバランスの上に導かれた絵画の豊かさである。
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