ギャラリーA・C・S(名古屋) 2022年4月9〜23日
若月陽子
若月さんは1959年、愛知県生まれ。1981年に名古屋造形芸術短大洋画コース専攻科を修了した。
季節のうつろいの小さな変化を感じとるように、生を紡ぐ植物、虫、あるいは生命をはぐくむ鳥の巣など自然のサイクルを木口木版で表現する作家である。
小さなもの、ささやかなものの生の時間の循環に、大きな自然の摂理がつながっている。そんな感性が作品の通奏低音となっている。
小さな自然に向ける優しく温かな眼差しが感じられる作品である。
輪切りにした高密度の木口板を版木として使う木口木版。銅版画にも用いるビュランで彫ることで、緻密、繊細な表現ができ、「西洋木版」とも呼ばれる。欧州では、本の挿絵として発展した。
若月さんは、サクラやツバキなどの木口を彫り、植物やそこに生息する虫、鳥の巣を雁皮紙に油性インクを使って刷る。
小さく精巧で、コントラストが効いた硬質な作品は、優美ながら凛と引き締まっている。
一部は、版画のコラージュや手彩色を併用。よりニュアンス豊かな表現を目指している。
若月さんは木口木版をベースに、身近な素材を組み合わせながら、多様な表現を開拓する。A・C・Sでの個展は、2020年以来2年ぶりである。
2022年 ギャラリーA・C・S
ギャラリーA・C・S(名古屋) 2022年4月9〜23日
今回は、パネルに洋紙を貼った上に、雁皮紙に刷ったレイヤーを重ねる作品がメイン。
1つの作品で、イメージのパーツごとに刷られた4、5枚の雁皮紙のレイヤーが積層している。今回は、この紙の重ねが特に探求されている。
このように、若月さんの作品は、木口木版といっても、イメージを重ね、あるいは空間に展開していくので、全体では1点ものの作品である。
雁皮紙の層を重ねることで、下のレイヤーの輪郭があいまいになる。霞んで見えることによって遠くにあるように感じられ、空気遠近法に似た効果を生んでいる。
これらのシリーズでは、余白を大きくとっているのも特長。レイヤーの重なりと余白によって、空間が意識される。
静謐な時間、空間に小さな生命が響き合う。
カリグラフィーなどで使われるコットン紙を支持体に用いたユニークな作品も新たに展示された。
このコットン紙そのものが肉厚でかわいい。つまり、質感が豊かな素材なのだが、若月さんはさらに古い手帳のページをコラージュするなど、物体としての存在感を高めている。
コーヒーをしみのように使っている箇所もあって、アンティーク調になっている。
屏風にしてパノラミックに見せた作品も展示された。空間が大きくとられ、ゆったりとした時間が流れている。
小さな作品では、微視的なまなざし、精緻な表現に引きつけられるが、この作品では、植物や鳥、昆虫のイメージが横長の空間に配され、マクロな視線、物語性が印象付けられる。
萎びたリンゴをモチーフにした作品にも引きつけられた。カフカ「変身」で、グレゴールに投げつけられた後、床に転がったリンゴが想起されている。
金屏風から剥がした金紙、木目を刷った雁皮紙など、レイヤーを重ねて微妙な雰囲気を出している。リンゴの表面を覆う深い皺が時間の経過を象徴する。
「草むら・考」若月陽子展が2022年4月1日~5月29日、愛知・碧南市哲学たいけん村無我苑で開かれている。
2020年 ギャラリーA・C・S
ギャラリーA・C・S(名古屋) 2020年4月11〜25日
モチーフとなる草むらや、根の延びた球根植物、鳥の巣などには、チョウやハチ、黄金虫、アメンボなどの昆虫も描きこまれる。
葉、茎、根、蔓や花、実、昆虫の一つ一つが恩寵を受けているかのように、静かに、しかし確かにそこに存在している。
身の回りの自然を写しとったモノクロームの美しいイメージ、その線、形、微細な光と陰影。
ささやかな生の煌めきをどうすれば掬い上げられるのか、そんな真っ直ぐなまなざしが隅々まで行き届いている。
若月さんは最初から木口木版を選んだというわけではなく、学校の卒業後まで続けていた銅版画を結婚、出産後に辞め、細々と絵画を制作した後に、手元にあったビュラン1本から自己流で木口木版に入っていった。
本人は、子育てや家事など暮らしの中でも、手工芸的な作業として続けやすかったとも書いている。
思いを込めるように小さな版木に慈しみとともに刻むこと、その作品が、身近な自然に思いをはせること、生きること、生活することと一体化しているのだろう。
私たちは、自分が生きている命の神秘を普段、不思議なほど忘れている。
自分が、どことも知れない遥かな生命の歴史の末端に、かすかな細流の果てに恩寵を受けたこと、大きな自然に包まれた1つのかけがえのない存在であること、その奇跡と感謝を忘却している。
若月さんの作品世界が、遥か長く連なる、生が関わり合う大きな生態系を想像させるのは、若月さんが植物、鳥、昆虫へ向ける眼差しが存在の奇跡と大きな自然のつながりへの共感、優しさと慈しみを帯びているから。
熱気をはらむ草むらや、うねるような球根の根、しなやかな茎、みずみずしい花弁、静かに羽を休めるチョウ、息を潜めるカエル‥。
その光と影の向こうには生命力が充溢する。それが一瞬の輝きであっても、はかなく滅びゆくものであっても、循環する時間には永遠が宿っている。
木口木版の細密描写ゆえに、どこかアンティークな植物図譜のような、西洋のボタニカル・アートのイメージもある。
一方で、コラージュと手彩色を施した作品は、イメージの硬質さが和らげられ、草木のそよぎや、湿度、しみわたるような空間が日本的な情緒も感じさせる。
《花びらを/はらはらはらと/捨てながら/実を抱きつつ/野草は立てり》
亡くなった母親が遺したという詩が、作者の作品に響いている。若月さんの思いが込められた珠玉の作品には、命を育む循環の時間が流れている。
我が身を捨てて、他を生かす時間。その存在の小ささ、はかなさと、それでも確かな、大きな時間、自然、宇宙とのつながり。
これは、人間の命にも当てはまる。若月さんは、植物や虫と同じように、自分の周りに生かされ、周りを生かす人々の小さな命、日々の暮らしに温かい眼差しを注いでいるのだと思う。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)