LAD GALLERY(名古屋) 2022年6月18日〜7月2日
宇野 湧
宇野湧さんは京都市立芸術大学、同大学院修士課程で陶磁器を学んだ若手である。2019年 に京都市立芸術大学作品展で奨励賞を受賞。その後、京都や金沢のアートフェアで展示する機会も得ている。
今回の個展は、宇野さんの2022年の大学院修了制作での作品「われてもすえに」の再現をベースにし、一部を新作として追加した。
身近なモチーフの素材をセラミックに変換する作品を制作している。
作品を見ると、単に身の回りにあるモノを題材に、やきもののオブジェを制作しているわけではなく、もともとの機能を帯びたモノの材質を陶土、磁土に置き換えていくことで、新たな価値を提案していることが分かる。
そう考えると、アート作品としての鑑賞的価値のみならず、人間とセラミックの関係を問い直しているとも言える。
割れ、歪み、欠け、脆さ、劣化、破損など、ワレモノとしての陶磁器素材の弱点、つまり、保存、記録のしにくさを反転させる試みを通じて、文化や美術への提案をする発想が作品に包含されている。
その意味では、シンプルながら、デザインのセンス、洗練された感性が随所に見られる展示である。
作品は、土素材の異分野への応用、日用品のオブジェ、コンセプチュアルなインスタレーションなど、幅広い。
われてもすえに・その後1
例えば、メインの作品では、「レコードカッティングマシン」によって、音源を記録した素焼きの磁土製レコード盤が作られた。
実際に、このアナログのレコード盤は、プレーヤー上で回転しているが、曲らしきものは聞こえてこない。もともと、土素材の精度の問題があるうえに、レコード針によって、盤の表面が削られ、劣化してしまうからである。
つまり、ここでは、あえて、容易に削られる土製のレコード盤によって、時間経過に伴う記録の喪失、モノの費消、脆弱さがネガからポジに反転している。
むしろ、音楽は近くに置かれたスマホから聞こえてくる。「われものの唄」という、宇野さんが自分で歌詞をつくったユニークな曲である。
曲の聞こえない磁土製レコード、デジタルデータの音源、歌詞によって、人間とモノ、素材、機能、文化の関係がずらされ、価値が問い直されている。
ほかにも、本紙部分を薄い陶土にして、呉須で描いた掛け軸や、磁器土の泥漿を3Dプリンターでつくった型に注いで作った鋳込みのスマホ、手びねりによる土製の額絵、やきもののフロアスタンドなどの作品がある。
いずれも、焼成による歪み、傾き、収縮、緊張、割れなどがあって、本物そっくりの実在感と、違和感、不完全さ、脆さ、劣化が奇妙な均衡を見せているのだが、それこそが作家が問いかけるものである。
モノの機能と素材、さらには、画一化された近代的価値観、消費、記録することなど時間概念などへの問題意識がみてとれる。
やきものは、高温焼結すると、何百年、何千年も状態が維持され、それゆえ考古学でも、いにしえの器物が完形で出土することがある。
モノの状態を維持し、歴史を記録するプロセスにセラミックは欠かせないが、あえて、土の脆さのほうに宇野さんはまなざしを向けているのである。
新作として展示された作品は2つ。1つは、京都から名古屋までの搬入を撮影した映像作品である。
宇野さんは、名古屋での個展を前に、運転免許を取得。運転初心者として緊張しながら、壊れやすいワレモノの作品をLADまで自分で運ぶ過程を「モノが語る映像」として制作した。
割れやすい作品を捉え続けた映像は、モノへの眼差しであると同時に、モノが自ら発する姿をも映している。
もう1つの新作は、自作の展覧会図録である。
図録は、和紙の上に特殊なのりを付け、陶のシートを紙のように重ねて制作されている。
モノと素材、機能と記録が、土素材によってコンセプチュアルに作品化されている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)