ギャラリーヴァルール(名古屋) 2021年11月23日〜12月18日
鵜飼聡子
鵜飼聡子さんは1990年、三重県生まれ。2017年、愛知県立芸術大学博士前期課程油画版画領域修了。三重県在住。
ギャラリーヴァルールでは、2019年、2020年に次いで3回目の個展となる。
鵜飼聡子さんは、感覚(主に視覚)や知覚、認知をテーマに制作している。認知の曖昧さへの関心から、オブジェやインスタレーション、平面などの作品を展開している。
人間は、感覚(視覚)から全体的なイメージを知覚し、それが何であるかを認知する。同時に、言葉(概念)によって世界を分節するが、この概念と認知のズレに着目するとどうなるか。
鵜飼さんの作品は、イミテーションによって、そうした概念と認知のズレを見せようとする。
概念とイメージ、素材、認知をめぐるコンセプチュアルな作品だが、楽しめるのがいい。
それは、プラトンが、洞窟での影の比喩によって、私たちが何を見ているのかと発した問い、すなわち、虚像と実体という根源的問題にもつながる。
Gallery Valeur 現実の模型 2021年
平面作品では、板を支持体に、カップ、マスク、スツールのイメージを鉛筆でドローイングし、そこにラテックスでつくったイミテーションを取り付けている。
ラテックスは、シートを作ってから加工。それに油絵具で着色し、本物らしくしている。
鉛筆によるシンプルな線と、ラテックスのねっとりした質感の差異がまず面白い。
カップにせよ、マスクにせよ、スツールにせよ、ラテックス素材は絵具の着色によって巧みに再現されているが、板に釘留めされているだけなので、だらんと歪み、線描との対比で、ユーモラスに見えるのである。
ここに概念と認知のズレがあるのだが、本物ではなく、ラテックス素材のイミテーションであることが効果を上げているように思う。
ラテックス素材について、鵜飼さんは皮膚のような感覚、あるいは、マスク(仮面、ペルソナ)のような感覚だと語った。
言い換えると、そこには、形、色、模様など表面的な性質をはぎとったような感覚があるのである。
それは見えている外側のリアルさを追求していながら、同時に実体ではない「マスク」である。
鑑賞者の意識が、概念とイメージ、認知を行き来するように巧みに仕組まれている展示である。
湯呑みをモチーフにした作品では、本物と、それを石膏とラテックスで模倣した作品、ラテックスだけで再現したものの3点を並べている。
ラテックスだけで作った作品は、ふにゃふにゃになっているが、それでも、着色したラテックスによって、釉薬の質感がしっかり出ているのが面白い。
インスタレーションは、自ら描いた1つの設計図を基に、異なる素材で9個のスツールを制作し、マトリックス状に配置したものである。
木材、ベニヤ板、プラスチック、紙、発泡プラスチック、布、段ボール、フローリングシート、メッシュである。
同じ設計図で制作し、塗料も同じである。メッシュや布のように形が崩れ、ぱっと見で、違いが分かるものがある半面、見分けがつきにくいものもある。
概念、イメージ、視覚と知覚、認知を巡る問題を、鵜飼さんは、ある種、素朴に、そしてラジカルに追究している。何より堅苦しくせず、身近なモチーフ、素材で具体的に提示しているところに好感がもてる。
油絵具で着色したラテックスをはじめ、さまざまな素材によるイミテーションの見せ方がとてもうまい。
奥の暗室に展示されたインスタレーションは、鵜飼さんの問題意識を理解するうえでの助けになる。
ドライフラワーのおしべやめしべ、がくなど、細かいパーツを取り除き、花びら、茎、葉など最低限の要素のみを「花」として平板に再構成したものを並べ、壁に影を投影している。
筆者がここで想起したのはやはり、プラトンがイデア(実体)を説明するのに使った「洞窟の比喩」である。洞窟の囚人たちは、壁に映った影を実体だと認識しているという有名なたとえである。
私たちは、なぜ花を花だと認知し、美しいと感じるのだろう。花の主要素をイラストのようにフラットに構成した鵜飼さんの作品の「花」は、花を花たらしめている要素を含んでいたとしても、決して美しくない。
影のほうが美しいともいえるのではないか。主要な要素を残し、そこに実在しても、美しいとはいえないのである。
鵜飼さんの作品は、シンプルだけに根源的である。言葉とイメージ、実物とイミテーション、仮象、それを見ること、そして、知覚し認知すること・・・。
あらゆるものがデジタル化し、実体を欠いたデータ、あるいは、AR(拡張現実)やVR(仮想現実)、MR(複合現実)によって、実在と影の関係が複雑になる中、私たちは重い問いを投げかけられている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)