Lights Gallery(名古屋) 2021年5月21、22、28、29日、6月4、5日
Hiroki Uemura × Hisashi Kurachi
Perceiving in Depth
Lights Gallery
1990年、北海道札幌市生まれの植村宏木さんと、1961年、愛知県生まれの倉地比沙支さんの2人展である。鑑賞には予約が必要。
植村宏木さんは2010年、秋田公立美術工芸短期大学(現・秋田公立美術大学)工芸美術学科ガラスコース卒業。瀬戸市新世紀工芸館、名古屋芸術大学、同大学院を経て、愛知県瀬戸市を拠点に制作している。
倉地比沙支さんは1984年、愛知県立芸術大学美術学部絵画専攻油画卒業。その後、同大学院美術研究科油画専攻修了、同大学院研修生修了。
2人は、今回の2人展まで面識はなく、画廊の企画で出会った。植村さんはガラスを主要素材にした立体、倉地さんは版画をベースにした平面だが、「深度」をテーマに共振しあっている。
古い日本家屋をリノベーションした空間の、主に自然光で見せる空間で、それぞれの作品が響き合っている。倉地さんの作品については、2019年の個展レビュー「倉地比沙支展 Crispy ground —伏流水—」も参照。
植村宏木
植村さんの作品は、ガラスが素材だが、技巧を重視した工芸的なものではなく、コンセプチュアルな立体である。
吹きガラスと板ガラスを中心に、他の素材と組み合わせていて、造形性はシンプルである。加工は最低限に留め、むしろ、それによって、見えないもの、気配、場所の記憶を感得させる。
ガラス以外の素材は、木材、銅や真鍮、植物などの自然物など。木材も建築部材であったり、金属も酸化する銅や真鍮だったりと、時間によってうつろい、変化するものである。今回は、木や石が使われている。
場所の記憶や時間性のある素材とガラスが組み合わされることで、場の感覚、不可視の空気感、空間性、存在することの確かさと不確かさが立ち現れてくる。
植村さんの作品では、そうした見えないもの、在ることのあやふやさを感じさせる素材としてガラスが使われ、とりわけ高温で軟化・変形する性質や、透過性が効果的に作用している。
今回の作品は、主に「知覚のはかり」というシリーズと、「呼吸を追う」のシリーズがある。
2階の展示室の「知覚のはかり」は、板ガラスが床に立ち、両側が部材と石で支えられているというシンプルな作品である。
ガラスは、とてもよく磨かれていて、透過性によって、向こう側がくっきりと見える。まるでガラスがないかのようである。だが、注意すると、切断面にグラインダーで線が彫られ、ガラス板の厚み(奥行き)を意識させる。
同じシリーズは、1階奥のスペースのテーブル上と、手前のメイン展示室にもある。
テーブル上の作品は、ガラスの一方の面におびただしい縦線、反対の面に横線が彫られ、ガラス全体が白っぽく見えるが、それ以上に、ガラス面の表裏の面を意識させることで、やはりガラスの厚み(奥行き)へと意識を向かわせる。
また、メイン展示室の作品は、円形のガラスが柱から部材によって浮くようにして固定してあり、2階の作品と同様、切断面に線が彫られている。
つまり、この「知覚のはかり」のシリーズでは、ある場所の空間に置かれたガラスが透過性によって他に何もないように見せながら、ガラスの奥行き(厚み)、すなわち、そこにある空気の層、空間の層を視覚化させるのである。
この空気や空間を視覚化、つまり彫刻化するのにふさわしい素材がガラスであり、そのほかの素材は脇役として、場や空間の感覚、気配を伝えるのである。
透明なガラスは、見えない隔たり、距離感の隠喩にもなっている。現代においては、コロナ禍と関連づけて考えることもできるだろう。
同様に、吹きガラスによるシリーズ「呼吸を追う」も、空気の彫刻という視点で見ると、とても興味深い。
この作品も、表面が白く曇った印象になっているのが特徴である。吹きガラスなので、制作のとき、植村さんは自分の息によってガラスを膨らませている。つまり、この形態そのものが、植村さんの息の彫刻だということもできる。
注目すべきは、これら曇ったような袋状の吹きガラスにクラックが入っていることだ。植村さんは、吹きガラスを一度解体して、内側からグラインダーで彫った後、再度、構築し直しているのである。白くくすんだガラスは、内側を彫った痕跡を外側から見ていることになる。
この作品も、空気が意識されるのが大きな特徴である。吹きガラスなので当然と思われるかもしれないが、その立体を解体し、内側をグラインダーで彫った後に構築し直すというプロセスがとてもユニークである。
つまり、植村さんの息によって造形された作品は、解体され、内側から彫られることで、かすかに内側の空間を広げ、内部空間に差異を生んでいる。
そして、その新たな空間に、新しい空気が流れ込んでいるのである。その差異を私たちは、白いガラス面とクラックから想像するしかない。
植村さんの息が吹きガラスを制作するときに押し広げた内部空間、そして、ガラスの内側を彫った後、《今、このとき》の空気が流れ込む現在の内部空間、その差異の空気の層、そして、ガラスによる空間の隔たりが想像できるである。
植村さんのガラス素材は、空気や空間の層、隔たり、距離感を意識化、可視化させる見立てとして機能している。それは、コロナ禍の中では、なおいっそう、強く訴えてくる。近年は、空気そのものの作品化にも挑戦している。
今後が楽しみな作家である。
倉地比沙支
倉地さんの作品については、前述したとおり、 2019年の個展レビュー「倉地比沙支展 Crispy ground —伏流水—」に詳しく書いている。
倉地さんの作品は、版画技法に基づくデジタルプリントがベースになっている。
リトグラフとエッチングを混合したリトエッチングという技法を中心に、パソコンでの合成、加工や、手彩色、さまざまな画材による線描など実験的なプロセスを何度も繰り返すことで成り立っている。
作品は、粒子感がするオールオーバーな空間を主題とした「クリスピーグラウンド」シリーズや、波立ち、飛沫を上げる水面のイメージを描いた「伏流水」シリーズである。
「クリスピーグラウンド」と題された連作では、ぱりぱりとしたイメージが、イリュージョンを超えて、質感や肌理、もっと言うと、質量、深度を感じさせるのが特徴である。
そして、この「深度」こそが、まさに2人展の主題と重なるものだと言っていいものである。
倉地さんがモチーフにしているこのざらついた画面は、表面はぱりぱりと乾いているが、下層は湿潤しているというクリスピーな砂地のイメージである。
こうした砂地は、倉地さんの故郷である愛知県扶桑町の土壌をモチーフにしている。 木曽川に近く、粒立ってざらついた砂地 、つまり、クリスピーな層の下には伏流水が流れている。
近年の倉地さんの作品群が、乾いた砂地「クリスピーグラウンド」と、豊かな水のイメージ「伏流水」のセットになっているのは、そのためである。
乾いた砂地と地中深く流れる水の勢い。それらが重なり合いながら、さまざまな記憶とも結びついたものが倉地さんにとっての原風景になっている。
航空自衛隊岐阜基地(岐阜県各務原市)の戦闘機の爆音や、土葬の風習と祖父母の埋葬、土の匂いや、大根の収穫・・・。さまざまな記憶が風景とともにある。
うつろいゆくはかない生をつなぎとめるのが、この故郷の大地と水の流れなのかもしれない。
さきほど、「クリスピーグラウンド」では、画面がざらついた質感や肌理、あるいは質量、深度を感じさせると書いたが、言い換えると、作品が砂の粒子が詰まっているように感じられるような印象である。
それはまた、プリントした紙がパネルを包むように水張りされ、パネルの側面も覆っていることから、いっそう強く感じられるのである。
そして、こうした砂の粒子が詰まった感覚、深度や厚みが感じられるからこそ、その下層にあたかも伏流水があるようにも思えるのである。
それは、まるで内部に水を含んだ地層のようであり、倉地さんの記憶をも抱え込みながら化石化した物質のように質量と深度を想起させるのである。
表面のクリスピーな砂粒の層とその奥の伏流水という厚み、深度を感じさせることこそが、倉地さんの作品の本質である。
その深度には、倉地さんの記憶と精神性が封印されている。
この厚みこそが、植村さんが可視化する見えない空気の層、空間の深度、気配と響き合うのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)