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鳥本采花 Empty,and Flower エビスアートラボ(名古屋)で2024年11月7日-12月22日に開催

YEBISU ART LABO(名古屋) 2024年11月7日~12月22日

鳥本采花

 鳥本采花さんは1994年、岐阜県生まれ。
2021年、愛知県立芸術大学美術学部油画専攻卒業、2023年、同大学院美術研究科油画・版画領域修了。

 子供の姿を描く作家である。そこには幼少期の記憶が投影されていて、しかも、子供の姿が神話や物語世界の登場人物、あるいはアヒルなどの動物に融合したキャラクターとして強調されている。つまり、そこに作家自身の似姿があるわけではない。 

 子供の顔は「かわいい」とされる長い睫毛、大きな瞳を備え、漫画の世界も連想させる。妄想された架空の世界に自身がひそやかに入り込んだ幼少期の「自画像」である。

Empty,and Flower 2024年

 鳥本さんが描く子供には、幼少期にできなかったことや子供の頃の憧れ、親に愛されなかった思いなどが投影されている。もっとも、そこに特異な家族関係や複雑な背景がことさらあるわけではなさそうである。

 自分を含む三人姉妹による母親の奪い合いや、欲しかったお菓子が十分に食べられなかった悔しさ、自分の将来の夢と母親の思いとの間での葛藤など、かたちは違えども、誰もが子供から大人へと成長する過程で経験する普遍的な記憶のようにも思える。

 多くの場合、それらは大人になるにつれ、忘れてしまうか、あるいは、自分なりに折り合いをつけて対応するものかもしれない。だが、そうしたささやかな記憶の襞を鳥本さんは丁寧にほぐして、すくいあげる。

 例えば、堕天使のモチーフは作家自身であるが、そこには、描くこと、画家になることを快く思わず、安定した仕事に就職することを願っていた母親に対する、自分の葛藤、小さな罪悪感のような「堕落」が映されている。

 あるいは、ギリシャ神話のメドゥーサには、親の言うなりに「いい子」として生きることに甘んじ、与えられた「当たり前」を超えようとしなかった、かつてのネガティブな自分が反転した不良性が表れているのかもしれない。

 ペロペロキャンディを絵の中の自分に食べさせているモチーフは、それだけを見れば、子供の頃の、かなえられなかった小さな願いだが、それもまた忘れられない記憶の澱なのだろう。

 ボッティチェッリの『プリマヴェーラ』が参照され、自分に「フローラ」の花模様のドレスを着せている作品もある。これは、幼少期の憧れだろうか。

 鳥本さんの作品では、神話や美術史などが引用されつつ、子供の純粋さ、神聖さ、それゆえの畏れ、不安が忍び込んでいる。

 一般に、自画像には、自分が自分自身をどう捉えたか、自分と世界との関係をどう考えているかが投影される。自分の世界モデルを見つめ直す、自分が自身や世界とどう向き合っているかの探求だともいえる。

 鳥本さんが「自画像」を描くのは、自己治療的な要素もあるようである。

 自身が生きていくうえでの執着が、子供の頃の経験に起因するとするなら、描くことは、そんな過去と向き合い、乗り越え、自分を自由にして、どう生きるかを自分自身で選択できるようになる過程なのではないか。

 おおよそ、すべての人間にとって、人生は苦しく、また無常であり、思い通りにならないことの連続である。その中で、多くの場合、人は、生々しい過去が投影された自分の経験、記憶による、その人なりの世界像をもってプログラミングされた自分を生きている。

 鳥本さんにとって、描くことは、そんな自分を解放する過程であるように思う。

 画面の中の子供たちは、かわいらしさ、華やかさの中に隠しきれない不穏さをも漂わせている。そして、無言であり、その目は、うつろにどこか遠くを見ている。

 つまり、見かけは、憧れだった自分の幼少期に戻ることができても、それだけでは「空虚」であり続けるしかない。人間は結局、世界の中で、自分が自分として生きていかなければいけない。どんな場合も、自分の心の穴を他人は埋めてくれないのだ。

 他者との関係性の中で、自分が自動詞的に変わるしかない。自分が幸せになるには、他人のせいにはできないのである。

 鳥本さんの絵画は、誰もが直面する、自分が自分として生きるための反語的なプロセスとして、鑑賞者に届く普遍性をもっている。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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