PHOTO GALLERY FLOW NAGOYA(名古屋) 2023年9月2〜18日
苅部太郎
苅部太郎さんは1988年、愛知県田原市生まれ。南山大学人文学部心理人間学科卒業。現在は、東京を拠点に写真作品を制作している。
2022年にTOKYO FRONTLINE PHOTO AWARD 川島崇志賞、2018年、第18回写真「1_WALL」ファイナリスト、2017年、米PDN Photo Annual賞。
南山大で認知心理学を学び、英国に留学。南アフリカ共和国でのNGOの感染症コントロール計画のフィールドワークにも携わった。銀行に就職し、金融ITを担当。その後、ハリー・グリエール(マグナム・フォト)のアシスタントなどを通じ、紛争地、災害地などで報道写真に従事した。
現在は、こうした幅広い経験を基に、複数のシステムに共通する構造を探究し、AIなどのテクノロジーも取り入れながら、人類がものを見る営み、視覚メディア、イメージの認知と変容を考察した写真を制作している。今回が、名古屋での初の本格的な作品発表となる。
電子的穴居人
液晶テレビの受信部を故意に接触不良にすることで、信号を乱し、テレビのニュース映像に意図的にグリッチ(デジタル装置のエラー)を発生させ、その画面をデジタルカメラで撮影した画像が作品のベースになっている。
さらに画像の回転、トリミングによって、その写真の文脈をずらし、それを、AIを搭載したフォトショップに入力。風景写真の画像認識・生成システムに、現実の風景だと指示して、デジタル装置の攪乱によって生成させたのが今回の写真作品である。
フォトショップのAIは、無意味に逸脱した写真データによってバグり、機械学習した膨大な現実の風景の特徴から強引にパターン認識する。それをフォト・コラージュすることで、この壊滅的に破綻した風景をつくりあげている。
面白いのは、AIのバージョンアップによって、AIの「風景観」が変わり、アウトプットも違ってくるため、同じ写真画像のデータを入力しても、1年前と現在では、全く異なるイメージが生成されることである。
もともとはテレビの乱れた画像であるが、少し前のAIだと、都市らしい家並みや、水の澱みと岩場など、まだ人間が理解できる風景が生成されるのだが、最近のAIだと、抽象度がはるかに増して、人間にとって、理解不能なイメージになっている。
同じように手法で制作した動画も展示。また、会場には、電子システムをバグらせて作ったグリッチ・ミュージックを流している。
荘子の「胡蝶の夢」のテキストをAIの音楽生成システムに入力して混乱させ、その音に、テキストを読み上げる自分の声を入れて合成したものである。
このように、苅部さんは、ツールの機能やAIのエラー、逸脱や誤読、誤配によって、無意味な混沌のような画像から、“機械の眼”に「風景」を認知させ、それを作品にしているのだ。
そうした無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出す知覚作用そのものは、決して新しいことではなく、アルタミラ洞窟において、壁のひびや凹凸を利用してバイソンが描かれたように、人間の視覚脳は太古から、見立ての欲望によって、イメージを創造してきた、というのが、苅部さんの考えである。
ちなみに、岡﨑乾二郎さんは、2019年12月22日の豊田市美術館での講演会で、「人間は、得体の知れないものを理解して、それを作り直し、自分のものとして、それを反復していく中で事後的に関係を探ってコードを作り直す。見ることイコール作ることだという仮説が成り立つ。結局、絵が見るだけで分かるというのは複雑なプロセスで、見るということは深遠なのである」と語っている。
フォーマリズムの関係する文脈での発言だが、筆者は、苅部さんの取材から、この岡崎乾二郎さんの講演を思い出した。
人間は、もともと在るものを使いながら、誤読し、再生産する。誤って解釈することで新しい文化、多様な生命や進化を生み出してきた。
来歴が分からないものの象徴として、ヤフオクで入手した旧石器時代の石器・握斧も会場に展示しているのは、苅部さんが、誤読、誤配、逸脱、偶有性によって、今の世界がつくられてきたと考えているからである。
現代的メディア環境を「洞窟の壁」になぞらえる苅部さんは、AIなどのテクノロジーのエラー、誤読、誤配によって、かつてない「風景」を生成させる。太古の人類から現代のAIまでをつなぎながら、見る営為について考察している。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。(井上昇治)