河原温と交流のあった5人がトーク
国際芸術祭「あいち2022」のトークセッション「河原温とは誰か?」が2022年7月31日、名古屋・栄の愛知芸術文化センター12階アートスペースAで開催され、100人が参加した。
「あいち2022」のテーマ「STILL ALIVE」が、コンセプチュアル・アーティスト、河原温が1970年代以降、電報で自身の生存を発信し続けた《I Am Still Alive》シリーズに着想を得ているのを受け、河原温を直接知っている美術関係者に、その芸術の本質と実像を語ってもらおうと、企画された。
河原温は、1965年頃から、ギャラリーや展覧会のオープニングなど、公の場に姿を見せることがなく、写真も秘匿するなど、人物像が謎に包まれた。
参加したのは、5人。生前の河原温と親交のあった平出隆さん(多摩美術大学名誉教授)、南雄介さん(愛知県美術館元館長)、能勢陽子さん(豊田市美術館学芸員)、ジョナサン・ワトキンスさん(英国バーミンガムのアイコン・ギャラリー館長)、吉岡令人さん(One Million Years Foundationマネージング・ディレクター)である。
モデレーターは、芸術監督の片岡真実さんが務めた。
1時間半という限られた時間の中で、濃密な内容が発表された。各登壇者の発言要旨は以下の通り。
南雄介さん(愛知県美術館元館長)
5人のうちで、一番早い1994年から接点があった。
東京都現代美術館の「レボリューション/美術の60年代 ウォーホルからボイスまで」(1995年)や、「河原温 全体と部分 1964-1995」(1998年)の企画で、河原温と仕事を共にした。
河原温は当時、展覧会より本を作りたいという思いが強く、まだ東京で絵画やドローイングを発表していた1950年代について、「(南さんが)いいテキストが書けたら展覧会をやってもいい」と言ってくれたが、実現しなかった。テキストはその後、国立新美術館研究紀要に「東京時代の河原温」として執筆した。
平出隆さん(多摩美術大学名誉教授)
1995年、ドイツ・ケルンで開かれた《河原温 出現 – 消滅》展に合わせ、平出さんが講演をすることになった。テーマは、1965年に米ニューヨークを拠点とし、1966年から始めた日付絵画「Today」シリーズと、日本の私小説との関係。
河原温は会場に来なかったが、後にニューヨークから電話があり、講演内容について「これまでだれも指摘してくれなかった要点を論じてくれた」と感謝してくれた。
電話は1時間半に及んだ。河原温の長電話は有名である。嵐のようにすごくしゃべる人で、展覧会などに姿を見せないということと合わせ、両極がある人。
2022年7月3日、「森鴎外没後100年記念事業『読み継がれる鴎外』」シンポジウムで、河原温の芸術と森鴎外の時間空間意識について述べた。
河原温が、『Today』シリーズを描き、自分の時間を記録していったことは、鴎外が最後の漢文調の「委蛇録」などの日記を綴じて総合化していったことと重なる。
河原温の作品をよく見ると、実人生の記録であって、虚構がない。河原温は姿を見せないアーティストだったが、むしろ、自分をさらした作家だともいえる。
「Today」シリーズは、1965年秋に始めることを決め、1966年1月4日からスタートしている。厳密な計画に基づき、時間を繊細に鋭く計算していて、姿を見せないのも、そうした作品の本質に関わっている。
ジョナサン・ワトキンスさん(英国バーミンガムのアイコン・ギャラリー館長)
「日々(Every Day)」をテーマに開かれた1998年のシドニー・ビエンナーレで芸術監督を務めた際、河原温に参加してもらって以来、交流をもった。
河原温は面白い人で、よく笑っていた。フットボールを一緒に観戦したこともある。楽しい人だった。
シドニー・ビエンナーレで、河原温は、美術館から出て、幼稚園で、1997年の1月1〜7日まで1週間の『日付絵画』7点を展示した。
作品は以後、『PURE CONSCIOUSNESS』というタイトルのもと、世界各地の幼稚園で展示された。
子供が初めて学びに触れるような新鮮な経験のプロセスと、新しい1年を刻む日々を交差させたものである。
その後、アイコン・ギャラリーとコンソーシアム(フランス・ディジョン)が企画した「河原温 -意識、瞑想、丘の上の目撃者-」展が、2002年末からの4年間で、西から東へ地球を一周をするように、世界の美術館で開催されたプロジェクト(日本では2005年、豊田市美術館で開催)でも、親交を深めた。
河原温は、核や環境の問題を超えた長い目で世界を捉え、21世紀を前向きに考えていた。
能勢陽子さん(豊田市美術館学芸員)
「河原温 -意識、瞑想、丘の上の目撃者-」の豊田市美術館への巡回(2005年)に向け、21世紀に入った頃から、約10年間、カジュアルな交流があり、世界のヘゲモニー、経済や宇宙物理など、さまざまなことを教えてもらった。
すごくしゃべる人。電車の中で、(河原温の)話を聴いている最中に寝てしまった武勇伝もある。
河原温は、20世紀をコスモポリタンとして生き、姿を隠すことで自分がどこの国の出身かというアイデンティティで作品が見られることを避けようとした。「日付絵画」が、制作をした所在地の国のアルファベットで書かれ、欧米以外では、エスペラント語が使われているのはそのためである。
人前に姿を見せないということも、作品と一体化したもので、核心に触れることなので本人に尋ねたことはない。
20世紀において、河原温の作品は、欧米的な二項対立的世界観とともにあったが、その背後には、無、空という東洋の考え方も広がっていた。
西洋的な論理に東洋の思想を重ねていた河原温は「あるがままに見るのは難しいが、それを提示しないといけない」と言っていた。
戦争体験と冷戦構造の影響で、世界に対する懐疑が全ての作品に通底している。世界がいつ消滅してもおかしくないと考えていた。21世紀に入り、晩年になると、二極化した世界観でなく、東洋的なものが現前化するようになるとともに、未来に肯定的なビジョンをもつようになった。
《I Am Still Alive》の電報のシリーズは、もともと、知人や友人に宛てて送られたものだが、豊田市美術館に寄贈された作品は、そうではなく、リストアップされた豊田市の多様な人たちに送られている。
河原温の父親は、現在の豊田自動織機が自動車生産に乗り出すときの創業メンバーの1人で、その作品は、豊田から世界へ展開していった自動車産業とも無縁ではない。
河原温の生前に計画された最後の展覧会は、米グッゲンハイム美術館での回顧展「サイレンス(On Kawara – Silence)」(2015年)である。
河原温は、欧米の人は「秘すれば花」「沈黙は金」が分からないと話していたが、彼の作品の背後にある底知れぬ深さ、沈黙とは何かを考えていきたい。
吉岡令人さん(One Million Years Foundationマネージング・ディレクター)
河原温と出会ったのは2008年である。
河原温は1990年代から、それまでの活動をまとめる作業に入り、デイト・ペインティングも徐々に減らすなど、意識的に終息する準備を進めた。
20世紀がギブアンドテイクの世紀だとすると、河原温は21世紀になって、未来志向へと傾き、ギブアンドギブの考えをもつようになった。
2001年に、ファンデーションを設立。後世に何を遺すかを模索していた。