N-MARK B1(名古屋) 2024年10月25日〜11月9日(木金土開催)
竹田尚史
竹田尚史さんは1976年愛知県生まれ。2004年、名古屋造形芸術大学美術学科彫刻コース卒業。2006年、同大学院環境造形コース修了。名古屋を拠点に活動。
2013年、「あいちトリエンナーレ2013」に出品。2019年、岐阜県美濃加茂市での現代美術レジデンスプログラムに参加し、美濃加茂市民ミュージアムで個展「質量の泉と重力の霧」を開催した。
なお、本展は N-MARK B1での最後の展示である。ビル所有者の移転に伴う事情とはいえ、同スペースの閉鎖は極めて残念である。
フィクションに質量を与える
「全ての事象をフィクション」と考える竹田さんは、質量を基準に世界を捉え返す作品を展開してきたが、それは質量こそが確かであると言っているわけではない。
現実世界をラジカルに考えることの1つの指標として質量、すなわち秤(はかり)が導入されているに過ぎない。
実際、竹田さんの作品は、秤を使ったもの以外に、さまざまなバリエーションがある。それらを総合したときに、竹田さんの作品群は、筆者が最近、興味を持つ仏教や脳科学、心理学と通じるものがあることに気づく。
今回の展示は、空間全体をを自身の部屋のようにした大規模なものである。部屋の中には、これまでの作品が所狭しと設置してある。それらは、秤に載ったオブジェだったり、それ以外の平面や立体だったりする。蛍光灯を使ってデジタルの数字を点灯させた「消えていく時間」もその1つである。
そして、その部屋自体が床ごと、秤に載っている。床下の秤は全部で25個もある。この25個の秤が指し示す重さの総量がこの部屋全体の重さとなる。
これは、竹田さんが2013年のあいちトリエンナーレで見せた《ダブルフィクション》 と同じ方法論である。
そして、この床面より上が虚構の空間であり、また、その重さと均衡状態になっている床面から下が質量を指標にした、別の虚構になっている。だから、ダブルフィクションなのである。
竹田さんが捉え直すのは、イメージであり、空間であり、物質であり、質量であり、時間であり、いわば、世界そのものである。近代的な自我、強い主体、個人主義、合理主義、人間中心主義を相対化すると言ってもいいだろう。
彼が「全ての事象はフィクション」と語るのは、どういうことなのだろうか。
世界は、反証されずに「当面はそう考えて問題はないだろう」という仮説、解釈の集合体として成り立っている。
そして、私たち人間は、知識、経験や記憶に基づくそれぞれの世界認識モデルを持っていて、それを投影することで世界を「フィクション」として見ている。
世界は、あらかじめ存在するものをコピーした万人普遍のものではなく、それぞれの脳内にある情報によってアノテーションされ、再構成されてつくられる虚構、錯覚、偏見なのである。
人が他者を、本質的には分かり合えない、解釈しきれないのも、この、それぞれの脳によって再構成されたフィクションとフィクションの行き違いによる。
だから、私たちが感じているこの現実世界は、脳がシミュレーションした虚構、仮想である。そして、それは仏教でいう唯識を連想させる。
世界も「私」も、固定したモノでも存在でもなく、コトであり、状態であり、現象である。これは仏教でいう「無常」「無我」「空」をも想起させる。
だからこそ、世界も「私」も不思議なのである。竹田さんの作品を見て、筆者が思うのは、そういうことである。それを軽やかに、ユーモアたっぷりに作品化してくれる。今回の展示を見て、改めて、そう感じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)