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タカザワケンジ写真展 FLOW(名古屋)で1月23日まで

PHOTO GALLERY FLOW NAGOYA(名古屋) 2021年12月27日〜2022年1月23日

タカザワケンジ

 タカザワケンジさんは1968年、群馬県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。写真評論家として活動しながら、作品も発表している。

 写真展は、「CARDBOARD CITY」(The White、東京 2015年)、「非写真家 non-photographer」(MUNO、RAINROOTS、paperback、名古屋、2018年)、「郷愁を逃れて」(IG Photo Gallery、東京、2020年)など。

タカザワケンジ

 写真評論家としての仕事には、ヴァル・ウィリアムズ著『Study of PHOTO 名作が生まれるとき』(ビー・ エヌ・エヌ新社)日本版監修、写真家の金村修さんとの共著『挑発する写真史』(平凡社)、著書『偶然の写真史 I・II』(Triplet)などがある。

 また、渡辺兼人『既視の街』(東京綜合写真専門学校出版局、AG+ Gallery)、福島あつし『ぼくは独り暮らしの老人の家に弁当を運ぶ』(青幻舎)などの写真集に解説を寄稿している。

someone’s watching me

 タカザワさんは、写真評論家であることをベースに、写真史の文脈にあるストリートスナップを現代的に捉え直すかたちで作品を発表している。

 アンリ・カルティエ=ブレッソン、ウィリアム・クライン、ギャリー・ウィノグランド、ヘレン・レヴィット、森山大道。タカザワさんによると、路上速写の系譜は写真史の中で脈々と続いてきた。

 そんなストリートスナップが現代で問われる1つの課題は、写真に写り込んだ人の肖像権、プライバシーといかに向き合うかである。

 現在では、SNSの影響もあって、ストリートスナップが隠し撮りであるとか、肖像権の侵害であるとか言われることが珍しくなくなった。

 街を撮影すること自体が犯罪ではないにしても、ストリートを歩く人にも肖像権はあるし、道路脇の自宅にいるところが写ればプライバシー侵害になりかねない。

タカザワケンジ

 そこで、タカザワさんは、分析の手法として、ストリートスナップと同様、1個人が街の中で本人の意思と関係なく、無断で映像に記録される監視(防犯)カメラと比較してみる。

 その意味で、タカザワさんの作品は、写真史の中で大きな位置を占めてきたストリートスナップの危機への反応であると同時に葛藤の産物でもある。

 監視カメラ大国の英国、あらゆる場所に監視カメラが設置されているとされる中国をはじめ、世界中の街中でカメラの眼差しが私たちを見ている。

 事実、防犯やテロ対策で監視カメラが市民権を得るようになったといっても、例えば、AIによる顔認証をプライバシー権侵害だと指摘する声が上がっている現状もあるのである。

 そうした問題意識をもつタカザワさんの作品は、ストリートスナップの眼差しを監視カメラと重ね合わせている。

 ストリートスナップが直面する困難の中で切り開く表現の可能性の1つとして、ブレた顔のみを抽出し、個人を特定できないようにしているのだ。

 タカザワさんは、人々が多く歩いているストリートの風景を何気なく撮っている。特定の人にカメラを向けることはなく、それはあたかも監視カメラのようにニュートラルである。

 シャッタースピードが1/6秒、1/8秒、1/15秒と遅いため、当然ブレる。

タカザワケンジ

 液晶モニターは見ず、構図を考えることもなく、監視カメラを意識し、カメラの水平垂直を決めて機械のように撮影する。続いて、ストリートスナップの中に写ったブレた顔写真を、パソコンで拡大。それを再度、スマホで撮影し、インスタグラムにアップする。

 タカザワさんは《someone’s watching me》のリフレットの中の論考で、ブレといえば森山大道、中平卓馬とされるが、「PROVOKE」の中の2人の作品に、顔がブレている写真はほぼないと説明している。

 それに比べると、タカザワさんの作品では、おびただしい数のブレた顔が、タイポロジーのようにグリッド状に並んでいる。

 それらは、かろうじて顔の特徴をにじませつつも、アイデンティティは失っていて、宙吊り状態である。モーフィング画像や、心霊写真、デフォルメされたフランシス・ベーコンの絵画の顔をも連想させる。

 それらの歪んだ顔は、AIによる顔認証では、だれかの顔につながるかもしれないが、私たちが目視するかぎりでは、仮に、似ている誰かの顔を想起することがあっても、根拠はなく、顔の認識、価値判断から自由である。

 いわば、監視カメラを意識して撮影されながら、人の顔を認証するという監視カメラの目的の逆をいっている。

タカザワケンジ

 ストリートフォトで誰かの顔が写っているとき、写真家はその誰かの顔を記録したいわけではなく、むしろ、撮りたいのは時代の空気や街の雰囲気である。

 だが、現代は、それが許されなくなっているのである。人間の顔は相当ブレても、誰かを想起させてしまうところがある。タカザワさんは、そのギリギリのところで、顔がブレたときのイメージの現れそのものについて実験しているようでもある。

 会場には、1つ1つの顔を拡大する前の素材である、街を無作為に撮影したスナップも拡大展示されている。

 全体が白枠のグリッドで区切られているが、タカザワさんは、あえて風景を白枠の正方形で区切ることで、写真がフレーミングの芸術であることをも提示しているのである。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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