Gallery HAM(名古屋) 2022年5月14日〜6月25日
鈴木孝幸/Takayuki Suzuki
鈴木孝幸さんは1982年、愛知県蓬莱町(現・新城市)生まれ。新城市在住。2007年に筑波大学大学院芸術研究科修士課程を修了した。
地元の新城市などの山中、あるいは海岸などに赴き、その場所と自身の身体性、感覚との関わりをきっかけに作品化する。
自然の中の身体の運動、感覚と、その場所からの採集物、ランドスケープ、地勢、地球の構造への想像力が結び付き、さらには、概念と思索によって、「詩的」という柔らかい言葉には似つかわしくない、もっと手ごわい大胆さで見る者の想像力を引っ張っていく。
作品の形式は、インスタレーション、映像、立体、平面などである。
まとまった量の土や石、樹木など自然の採集物、鉄などの工業素材を運び込み、展示。それらの移動、集積、配置、構築などの行為も作品の一部をなす。
場と物質、想像力を通して、土着的、文化社会的な要素より、はるか大きな自然、地学的な構造と、人間がつくりだした概念や、意識、感覚、身体性の関係を考えている。
2021年のギャラリーハムでの個展、名古屋市美術館での「現代美術のポジション 2021-2022」、2022年の愛知県豊川市桜ヶ丘ミュージアム「鈴木 と 鈴木 ほる と ほる」のレビューも参照してほしい。
ポジション展では、大地の揺れ(地震)をテーマに、映像、音声、採集物、地図、造形物などで表現していた。
2022年 “マリアナでつまずく” – place / fossa –
今回の個展のテーマは「境界線」である。とりわけ、マリアナ海溝をプレートとプレートがぶつかる境界と捉え、壮大な構想力を見せている。
会場には、巨大なインスタレーション作品「境界の彫刻」を設置。コンクリートの法面などに埋める鉄筋のワイヤーメッシュを壁のように構築した。
ワイヤーメッシュは、山間地では、シカなどの防獣にも使われるそうだ。重厚だが、向こう側が見える網目構造になっている。
まさに巨大な境界線。その右側には、崖からの落石のような雰囲気で石がちりばめられ、左側には石はない。一部の石は、壁に引っかかったようにメッシュに挟まっている。
この作品は、2021年9月、新城市の旧・門谷小学校で開催された現代美術のグループ展「飽きと知性 Against the Tiresomeness」で出品した作品を再構築している。
2021年は、ワイヤーメッシュで海溝の形をトレースしたが、今回は、もう少し壁に近いイメージである。
山間部に造成された法面は、人間の生きるエリアと自然との境界線である。
「境界」は、いろいろなテーマになりえるが、この作品は圧倒的、体感的。コンセプチュアルなものを超えて地形、地勢に関わり、もっといえば地球規模の想像力という意味でダイナミックである。
そもそも、鈴木さんの作品には、[見える / 見えない]という思考がある。マリアナ海溝について、私たちは地図上の場所、海溝というイメージでは知ることができるが、実物を生で見ることはできない。
この作品は、そうした普段、見ることができない境界を体感的な迫力で意識させるのである。
映像作品「光について —上流から下流へ—」は、マリアナ海溝から、ニホンウナギへの生態へとイメージを広げた作品だが、そこにも[見える / 見えない]の問題意識が反映されている。
この映像は、カメラに白布を掛けて撮影され、白いスモークに覆われたような作品になっている。つまり、見えない映像である。
日本の河川、近海に生息するウナギの産卵場所は、日本から3000キロ離れたマリアナ諸島西方海域(マリアナ海溝の北側)であることが分かっている。
しかし、地図上ではその場所が分かっても、親ウナギが日本からどう産卵場へ辿り着くのかは分からない。ウナギは全体の位置関係を分からずとも、必ずそこで産卵するのである。
つまり、ニホンウナギは、生命活動にとって欠かせない位置を目ではないもので把握し、そこに向かっている。ここからの連想で、この作品は「見えない=撮れない」ビデオカメラで新城市の宇連川を撮影した映像がもとになっている。
関連する作品に「目を閉じて歩行する」がある。河原で採取された曲がった鉄筋を白く着色。鈴木さん自身が目の見えない状態で、白杖を使って歩いた歩行音とともに展示した作品である。
太い鉄筋は、どこから流れ着いたかも分からない。水流など自然の力で大きく屈曲しているのが印象的である。
もう1つの映像作品「マリアナでつまずくための練習—伊豆半島から眺める—」は、伊豆・小笠原海溝、マリアナ海溝の西側に連なる火山群島の延長上にある伊豆半島をモチーフにしている。
伊豆半島で撮影した映像に、新城市の河原で鈴木さんがした行為の映像を重ねている。
鈴木さんが試みたのは、海溝にしろ、その西側に伸びる火山群島にしろ、それら直接には見えない境界を想像できるように赴いた伊豆半島と、普段生活している新城での「歩く」「線を引く」など、何気ない身体的行為を重ねることである。
生活圏である新城での身体性、感覚と、見えない、意識にすらのぼらない境界線である海溝を半ば強引に結びつけることを通じて、[見える / 見えない]を考えている。
今回の展示の中で、ひときわユニークなのが、河原石を割って、間に海綿を挟んだ作品である。
雑草などもそうだろうが、強い生命力によって岩の亀裂などに入って、自分のポジションを取ろうとするイメージである。
生命力のたくましさは、岩をも割るほどであり、それが新たな境界線をつくる。海綿の小さな穴には、朝顔の種が入れてある。会期中に芽を出し、育つかもしれない。新しい境界線から生まれる、さらに新しいポジションである。
鉄板を素材にした連作も興味深い。矩形の鉄板を、海溝の形をトレースした線で切断し、それらをずらして再構築している。鉄板は海洋プレートのメタファー、切断面は2つのプレートの境界である。
熱による溶接加工などをすべて裏面から行なっている。つまり、裏面は作業で荒々しい痕跡が残っているが、表面はわずかな変色が現れているのみである。
地震とも関係するプレートの沈み込みなどのメカニズムは、見えない地球内部で起きている。この作品は、地震や火山噴火、地形変化などが、地球内部で起きている現象の地表でのわずかな現れであることを表している。
ここにも、[見える / 見えない]こと、ひいては、私たちが、ときに想像力、身体感覚を失い、視覚重視の世界に生きていることへの問題意識が感じ取れるだろう。
鈴木さんは、この作品で、支持体の表面に絵具をくっつけて視覚に訴える「絵画」という表現形式とは逆の、裏面に起きた熱変化の反映としての表現を試みているのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)