ガレリア・フィナルテ(名古屋) 2020年4月7〜25日
鈴木省三さんは1946年、大阪市生まれ。同志社大学法学部を卒業。学生時代にジャクソン・ポロック、モーリス・ルイスなどの絵画から刺激を受け、上京後、独学で絵画の道を進んだ経歴をもつ。東京・高円寺のフォルム研究所に通っていたとき、諏訪直樹さんもいたという。
矩形という普遍的な絵画形式の前に立つ人間が、自分を軸に能動的に眼差しと感情を駆動させて、矩形の中の空間と一対一の関係を結ぶという在り方に、あるいは、堅牢な画面に身体をぶつけるように描いた作品が、見る人にイリュージョンの中にいるようなスケールと深度、生動を感じさせる物体の実在感に、ストイックに挑んできた思索と格闘の人である。
この画廊で個展を続けてきたので継続的に見る機会を得られた。筆者が見ているのは、1990年代以降だが、1980年代は、ゴム板に油絵具やオイルスティック、パステルで描いた「森」シリーズで注目され、1989〜1990年に東京、京都の国立近代美術館を巡回した「現代美術への視点 色彩とモノクローム」に出品した。黒いゴム板を背景に緑を重ねたニュアンスに富んだ深い森は、色彩の繊細な重なりが凝集することによって視線を深奥へ、周縁を越えた広がりへと誘いつつ、絵画空間に裂け目のような空隙がぽっかりと現れる作品だった。
当時の作品は、長い時間をかけて向き合った画面に筆触が重なり、視線を地の黒の方へと導きつつ、その堆積の密度によってじっとりした触覚性、深度と広がりを生み出していた。
鈴木さんにとっては、自身の中に沈潜していたイメージ、感情がそのまま画面に定着されることはなく、それらは、常に画面に向き合うときの感性的知覚、描く時間の堆積として変容しながら生成される。つまり、鈴木さんが、この世界で経験した出来事、世界のイメージ、湧き上がった感情は、画面と対峙する制作行為の時間の中で高い抽象的密度へと更新されるのである。
90年代の、ニュアンス豊かな有機的な色彩の領野が拮抗し合う空間を経て、米同時多発テロ後の2002年ごろから、倒壊した高層ビルのイメージが投影された黒い影のような太い線が垂直方向に立ち現れる。油絵具を新聞紙や電話帳の紙片の短冊で画面に擦り付け、やがて、多層的なグレーや橙、黄、青などの線のカオス、乱舞、漂流、集積、流れの中で黒線が多様な変化をしはじめ、黒い線のバリエーションが展開する。拡張、繁茂、増殖、蝟集、連鎖して広がる黒い影と、明るい色彩の宇宙とのせめぎ合うような空間には、かつての湿潤とした触覚性とは異なり、より大胆で生々しい作家の身体性、画面と感応した制作の痕跡が見て取れた。
1999年から2020年までの作品10点ほどが展示された。新作2点が出品されたほか、1990年代、2000年代、2010年前後の作品が並び、ミニ回顧展のような構成になっている。
1999年制作の「単独体」「大回廊」は、オイルペイント、オイルスティックによる大作である。ルビンの壺を想起させる形象が見えるなど、いくつかの複雑な色彩の塊が垂れ込めたように配置されながら、地と図を絶えず入れ替えるように作用する。図と地の分離、図の手前へ迫り出す動きと奥に引っ込む動きを継起的に知覚させる絵画空間が、見る者がそこに入っていけるような奥行きと広がりを感じさせる。
2009年の作品「晩翠」では、黒い空間に対し、白、黄、緑などの乱舞するような筆触の大きな塊が左から漂流するように入り込み、それらの細かな飛沫のような光が黒い絵画空間に溶け込みながら格闘しているように見える。それでもなお、闇に対して発光する白い形象は繊細に制御され、エネルギーを内在させたような確かな存在感を放っている。
2020年制作の2作品は、黒く太い線が印象的な2000年代以降の作品に通じるものである。一方は、白、黄、青、赤などの筆触の重なる広大無辺の宇宙に、右方から、黒い影が枝分かれするように現れ、もう1点は、余白のある絵画空間の全面に太い影がネットのように広がり、青い線のネットと絡まり合う。しなやかな他の色彩とともに、よりダイナミズムを感じさせる作品だった。