L gallery(名古屋) 2019年12月14日〜2020年1月5日
杉浦さんは1968年、愛知県生まれ。日本伝統工芸師の吉田信久さん(富山県)に師事し、彫刻家の籔内佐斗司さんの元で四天王制作に関わったこともあるという木彫作家である。作品は概して小ぶりで、今回も、鳥の目で俯瞰したジオラマのような風景のシリーズを中心に、デフォルメした動物なども出品。とても発想のユニークな木彫家である。
素材は、スギ、クスノキなど。杉浦さんの彫刻には大仰さがない。とても技術力のある人だが、彫刻に関わる持論を声高に語らない。大きくても、数十センチほどであるサイズ感は、この作家の特長である。もう1つの特長は、物語性、言い換えると、現代的なメッセージである。この小ささとそこにある物語性から、見る人は、一般的な意味での彫刻に対するよりもっと近しさ、親しみを覚える。
言うなれば、明治期以降に西洋から輸入され、翻訳語として広がっていった「彫刻」より、それ以前に使われていた「置物」「彫り物」の造形性に近い。そうした要素を持ちながら、作品は洒落ていて、現代的な感覚そのものである。この彫り物的なありようと、現代性の共存が実に興味深いのである。
日本の近代彫刻は、写実から入っているが、「木彫職人」だった高村光雲の「老猿」に見られるように、初期の迫真性は、量感や立体感のみならず、伝統木彫の系譜にある表面の写実にこだわっていた。あるいは、高村光太郎、橋本平八などは、同時代の西洋彫刻を意識しつつ、日本の前近代の造形感覚、技術と通じるものがあった。その意味で、杉浦さんが、鑿(のみ)を使い、富山県の井波彫刻(社寺彫刻、屋台彫刻)の人から学んだ経験は、作品世界に彫り物的な表面への眼差しを反映させているはずである。
こうした前提の上、それぞぞれの作品を見てみる。最初に触れるのは、杉浦さんの代表的なシリーズとも言える鳥瞰の作品群で、これらは原則、1つの木から削る一木造である。鳥の視点で鳥瞰的な風景を彫刻で緻密に彫り出す箱庭のような作品だ。このシリーズでは、作品の下部が削る前の木材の量塊をそのまま残し、台座の役割を果たしている。地上の風景がそのまま1つの木材から彫り出されたことを強調しているとも言える。
その一つ、「鳥の視点—原生—」は、クスノキを削って、苔むした屋久杉の原生林の風景が再現してある。地面には巨岩がいくつも連なり、その上に巨木が根こそぎ倒れて枯れ果てている。その全てを苔が覆い、悠久の時の流れと、その場に居合わせるような感覚、湿度や温度、水の滴り、鳥のさえずりをも感じさせる。よく見ると、枯れた巨木の幹の割れ目から小さな若芽が出ている。超絶技巧と言っていいだろう。ここには、原生林の自然の循環、再生、もっと言えば、輪廻などということに思い至らせる物語がある。そして、迫真的な地表の起伏、岩や枯れた巨木など表面の質感が写実的に再現されている。ここには、彫刻的な屹立より、明らかに寺社彫刻の表面装飾や彫り物からの影響があると思う。
他に、白孔雀が長い羽を伸ばしている幻想的な作品「鳥の視点—孔雀のいる風景」なども、見事な表現、技巧である。
クスノキから掘り出した作品「見届けるもの」は、苔むした巨岩の上に鎮座したシカがじっとこちらを見ている。岩とシカの体が一体化し、シカの体にも苔が付いている。苔むすほどの長い時間、シカはこの世界を見届けているようだ。シカは、春日大社などで神の使いともされる。他方、杉浦さんによると、シカの目は、仏像の目のように作ってある。神仏習合や、アニミズム的世界観などへと、想像が広がらないわけでもない。ほとんど一木造だが、角だけツバキの木で作られている。変わらないもの(体)と生え変わるもの(角)の対比が象徴的に造形され、永遠性を象徴する大いなる存在と、その中で変わり続けるもの、無常と再生がテーマになっている。
一方で、ユーモアあふれる小さな動物の連作や、着ぐるみのトナカイ、パンダも面白い。ぐったりと疲れ切ったように椅子に座るトナカイの中には、仕事中のおじさんが入っているという設定。哀愁漂う姿には、漫画「あしたのジョー」で矢吹丈が燃え尽きてリングのコーナーにうなだれて座るイメージを借用し、子供たちのため、家族のために働き続けたお父さんへの讃歌を込めた。
花柄のミサイル型の作品「Peace Attack(平和攻撃)」は、上蓋の裏側に種子が収められている。このミサイルが着弾した場所に、破壊ではなく、平和を送り届けるという逆説的なミサイル。ミサイルが落ちた場所には、ヒマワリや広葉樹が広がるという空想を抱かせる作品である。
異質なのは、20年ほど前に制作したという平面的な作品。スギの量塊にドリルで手当たり次第に穴を開け、それをスライスしたものを平面的に構成している。ドリルが入る角度によって、楕円形や線状がランダムに広がる抽象画のようだ。また、杉浦さんの個展では、緻密な計算をして超絶的な手わざで彫り込んだ作品がほとんどだが、道端で拾った小石を顔のように見立て、加工を抑えた木の胴体に載せたシンプルな近作が2点あった。無作為、偶然性という点で、20年前のスギの平面作品と共通した意識を見て取れる。