ギャラリーA・C・S(名古屋) 2022年2月12〜26日
杉尾信子
杉尾信子さんは1977年、大阪府生まれ。滋賀県立大を卒業し、看護師として働いた後、20代半ばで、京都造形芸術大(現・京都芸術大)通信教育部を卒業した。
滋賀県彦根市を拠点に、絵画、ドローイング作品を制作し、関西を中心に作品を発表している。名古屋では、A・C・Sで個展を開いている。
今も看護の仕事を非常勤で継続。子育てもしながら、着実に歩みを進め、制作している。
杉尾さんの作品は、線を引くことがベースになっている。
普段の暮らしと地続きの制作の中で、生活音や音楽に耳を澄まし、その音感に呼応して手を動かす。画面に痕跡を残すように繊細な線を連ねていく。
紙にアクリル絵具で黒い細密な線を引いたドローイングが今回も多数展示されている。キャンバス作品では、油絵具で線を引いてから、柔らかく彩色している。
自在な線の戯れとそれに絡め取られたような色彩の薄膜が静かにしみいるように優しい。それでいて凛とした強さが心地よい作品である。
2022年 ギャラリーA・C・S
白と黒が画面の中ほどで侵蝕しあっている作品がある。
白と黒のレイヤーを重ね、鉄筆でひっかくようにして、黒の下層の白線、あるいは白の下層の黒線を見せている。
オートマティスム風の線はか細く、緩やかに這い回って進み、一方、白と黒の領野はせめぎ合うように強く組み合っている。
色彩が塗られている絵画も、その下層に白と黒のレイヤーがあって、ひっかき線で区切られた部分ごとにを薄く絵具を塗っている。
色面のかたちは、先んじて引かれた線によってつくられているのに窮屈さがまったくなく、むしろ、心和むほどやんわりとしている。
いわば、白地に引かれたひっかき線がかたちをつくり、その白い小さなかたちによって招かれた色彩が塗り重ねられている感じである。
線による絵画が華やぎの世界に一気に昇華されたように悠々として、離れて見ると、線はもはや後退し、一面、さまざまな色彩が入り組みつつも、むしろ晴朗とした広がりである。
画面を覆う線が、モノクロームの作品に比べると、たどたどしくなく、どちらかといえば、おおらかなせいであろう。
それでも、杉尾さんが、あくまで、ひっかき線の中を色彩で塗っていることは、大きな特徴である。
それぞれの色彩が周辺に混色していくことはないので、これはどこかモザイク、あるいは、ジグソーパズルのような趣もあって、面白い。
生活の中の音に触発され、それが体を通り抜ける中で線が生まれる。
ランダムに引かれたひっかき線がかたちになって、その1つ1つのかたちが柔らかな色彩で塗り分けられた全体が、ある風景のようにも見えてくる。
前回の2020年の個展を見たときも思ったのだが、杉尾さんの作品では、自律した表現をしていくことの背後に、確かに看護という仕事や子育てなど、生活があるということである。
それは、他者を感じ、生死を感じ、具体的な世界を感じ、生きていることの感謝と謙虚さを感じることでもある。
そんな生きている時間にさまざまな音が流れ込んでくる。
杉尾さんが生活音や音楽を聴きながら描くというのは、この世界のリズム、自然の気配を感じ、人間の営みに共感していくことと言い換えることができるかもしれない。
2020年 ドローイング ギャラリーA・C・S
ギャラリーA・C・S(名古屋) 2020年2月8〜22日
とても繊細できれいな線を引ける人である。感性によって自在に線が動くように見えて抑えが効いている。
黒線の肥痩、緩急、屈曲、所々に連なるドット、線が織りなす粗密のセンスが良く、その上から薄く溶いてのせていったと思われる淡い色彩も、優しく透明感がある。
線は、ためらいがちに進みながら、行きつ戻りつ、曲がって、少しスピードを上げる。
筆が休憩するように絵の具がそこに溜まって、また動き出す。ジグザグ道をゆっくり進みながら、今度は、飛び石のようにリズミカルにドットが刻まれる。かと思えば、さっと、勢いよく軽やかに流れていく——。
そんな線とそれと響きあう色彩がとても気持ちいい。
音楽を聴いて制作した作品もあるとのことで、「ピアノ五重奏 Op.44(I)」「狂詩曲」などのタイトルがついている。
他には、「山笑う」「円と四角」「山の秋」「雪が来る」「とりとめもない今日」などと、風景や天候、日常のひととき、自然、出来事に関わるタイトルがつく。
そうした生活感のあるタイトルから察せられるのは、制作と生活が深くつながりながらも、同時に、それぞれの領分と時間を作家が愛おしむように大切にしているということである。
横に2作品が並んだ「優しい雨」「激しい雨」では、その言葉にふさわしい心象風景が見事に表出されている。
「粧う山」などは、紅葉に染まる山のようなイメージ。各作品とも、タイトルと画面の雰囲気が見事に合っているので、タイトルを決めてから描くのかと思いきや、逆で、タイトルは後からつけるそうだ。
ということは、何かをイメージして線を引いているのか、それとも、自動筆記に近いかたちで線を無心に引くのか‥‥線に即興性や瞬間性はなく、むしろコントロールされている感じである。
それでいて、作品はどれもナイーブ、純真である。細密といっても、空気が吹き抜けるような爽やかさがある。
今回展示された一番の大作「満ちて行く時」(130.3×130.3センチ)では、余白が多く、星雲のようなイメージが空間に漂い、スペインの「アストゥリアス」では、黒く網目のようなアンフォルムな形象が浮かんでいる。
小品でも、そうした作品の傾向は変わらない。
ただ、余白が小さくなって、稠密感が増すので、どちらかというとイメージが強く出る。生活の中から生まれた、ささやかな作品ではあるが、見る人にそっと寄り添ってくれる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)