AIN SOPH DISPATCH(名古屋) 2021年5月8〜 29日
杉本充さんは1948年、静岡県伊東市生まれ。
愛知県立旭丘高校、愛知教育大を経て、1975年、東京芸術大学大学院美術研究科壁画専攻を修了した。
テンペラ技法を基本に、独自の方法で絵画を探究している。
絵画に対する自身の問題意識、これまで美術家として生きてきたプロセスを絵画史と撚り合わせるようにしながら、絵画空間を追究しているともいえる。
その世界は、宇宙空間、天空、あるいは地球をとらえた衛生写真のようにも見える。
本人は、「宇宙の壮大な空間を想うとき一種の開放感があり、救われたような気がした。希望を見出すような表現でありたい」と書いている。
大学院を修了した後、モザイクやステンドグラスなど装飾的な仕事に関わる一方、ミニマルな表現の抽象絵画を描いていた。
1つの転機となったのが、1992から1993年にかけてのドイツ留学。当時、デュッセルドルフに滞在していた奈良美智さん、O JUNさんらとのグループ展に参加するなど、異国で自分自身や絵画のあり方を見つめ直す過程で、日本的な感覚の抽象絵画を意識するようになったのである。
いったん帰国した後、1994年にドイツで開いた個展では、ピグメント(顔料)、墨、パステルなどによる絵画を出品している。
ただ、それがそのまま現在に直結しているわけではない。1990年代半ばごろからは、日本的なものを見つけようと模索する中、インスタレーション作品を展開した時期もあった。
絵画に回帰したのは2001年ごろ。日本福祉大学での教員に加え、名古屋造形大(当時は名古屋造形芸術大)で、フレスコの授業を担当するようになり、描く内容と絵画の組成、技法とのつながりを強く意識するようになったのである。
中でも、フレスコ画の補彩技術として必要だったテンペラ技法に着目。テンペラ技法をベースに据えることで、独自の絵画のあり方を技法と関連づけながら探っていった。
板材の上に白亜地で地塗りをし、カゼインテンペラ技法を主体に、絵具をつくって塗り重ねている。「ミクストメディア」としているのは、自作メディウムに、アクリル樹脂など、さまざまなものを混ぜるようになったためである。
具体的な対象物を描いているのでも、あらかじめゴールを決めて抽象絵画を描いているのでもない。
絵具の発色性、マチエールを追究しながらも、むしろ、オートマティスムともいえる方法論を深めている。
独自に調製した絵具を塗り重ねては削るというのが基本的な方法。絵具の層を重ね、乾いてから画面を削るという作業を何度も繰り返すことによって、色彩と絵画空間、マチエール、イメージが《向こう》からやってくるのを待つ。
そうした無意識のプロセスで浮かび上がるものが作品の重要な要素となる。
もっとも、いくつかの作品では、縦横に描線が引かれたり、画面が分割されたりと、意識的、理知的な要素も加わっている。
宇宙のような絵画空間が格子状の線によって分割される作品では、グリッド構造が印象的である。
その意味では、杉本さんの作品も、アバンギャルド絵画のインデックスを踏まえているといえる。
つまり、杉本さんの絵画では、絵具の層を重ねては、削り取るという反復作業によるシュルレアリスム的な無意識的、偶然的な効果と、グリッドや画面分割による理知的、幾何学的、還元的な要素が合わさっている。
こうしてみると、杉本さんの絵画では、美術史における諸要素、例えば、フレスコ(壁画)、テンペラ画、シュルレアリスム、グリッドなどを再帰的に取り上げながら融合させているが、同時に、それは、杉本さん自身が過去に関わったものの潜在的な復活、自己回帰的なものである。
つまり、杉本さんの絵画は、彼自身の記憶、生きることとともにある。
写真では分かりにくいが、さまざまな色彩の層が重なった絵画空間とマチエール、イメージはとても繊細である。
再現的な対象を表しているわけではない。《向こう》からやってくる絵画空間は、未知のもであり、同時に杉本さんの中の潜在的なものである。
そうした潜在的なものが杉本さんの表現衝動となり、あるいは逆に表現衝動が潜在的なものを浮かび上がらせる。
杉本さんは、流行や新しいテクノロジー、先鋭的な同時代表現とは異なる絵画史の再帰性の中に、いまだ出会っていない世界、気づいていないものを探し続けている。
《向こう》からやってくるもの、美しく純粋なものと出会うこと。だが、それは混迷した現代に生きる美術家が希求するものとして、やはり同時代的なものではないだろうか。
物質的な制作過程を踏まえる中で、さまざまな矛盾、混沌を抱えながらも、立ち現れるコスモスのような空間に生きる希望を見いだそうという作品である。
杉本さんは最近、楽焼「黒楽」の世界に衝撃を受けた。黒色だけど、ただの黒色ではない、作為を超えた宇宙である。こんな世界を絵画で表現できないかと。
そうしたたたずまいとしての黒は、たとえ物質的なものであっても、概念としての黒色ではなく、闇と光が深く、遥か彼方まで無限に重なり合った黒である。
そこにあるものこそ精神性ではないかと・・・。物質性と純粋な視覚性、混沌と秩序・・・。矛盾の彼方に現れる希望としての空間を探究し続けている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)