STANDING PINE(名古屋) 2020年9月12日〜10月10日
岡崎和郎
1930年生まれの岡崎和郎さんは、とてもキャリアの長い作家。今回は、1959年生まれの小川信治さんとの2人展である。
小川さんが岡崎さんをリスペクトしている関係にあるといい、新作を含む構成である。
岡崎さんは1950年代末から、読売アンデパンダン展に出品し、60年代に入ると、瀧口修造と交流し、影響を受けた。
基本的にオブジェを制作する特異な美術家であり、その後、従来のオブジェで見落とされてきた物の見方を補おうという意図の「御物補遺」という概念が一貫するようになる。
とりわけ、壁にひさし状の物体が付着する《HISASHI》シリーズは、壁の裏側や手前の空間、見えない境界、空間の広がりと宇宙、存在と世界について喚起させる作品になっている。
物の表面から隠された部分、精神の欠落、日常的な意味の余白、実に対する虚の補完を意識させる作品である。
小川信治
一方、超絶技巧を持つ画家、小川さんは、1990年代半ば以降、《Without You》、次いで《Perfect World》という2シリーズをスタートさせ、これらの高い評価から、さらなる展開へと進んでいった。
「世界とは何か」というラジカルなテーマを据え、見慣れた情景、既存のイメージの一部を欠落、追加、対称化させるなど、シンプルな操作・改変をしながら、油彩や鉛筆などの伝統的な技法で描く。
現実とは異なる世界の可能性、偶然性、必然性など、可能世界論とも通じるテーマを内包させるシリーズの展開である。
端的に言えば、《Without You》は、有名な西洋古典絵画などを模写しつつ主要な登場人物を抜き取って欠損させるもの、《perfect world》は逆に、ウジェーヌ・アジェなど古い写真や絵葉書などから取ったイメージを描き直し、本来1つしかない人物や物体が2つ描かれるものであった。
ともに、シンプルな操作によって、世界と存在を巡る思考を駆動させてくれるシリーズである。世界とは、存在するとは、どういうことなのかと。
BEHIND THE GARDEN
本展は、2人の響き合うような作品をギャラリー空間に展示した。
両者は、岡崎さんのオブジェ、小川さんの絵画という違いを超えて、存在と世界、反転、裏側の世界、余白、欠落、可視/不可視など、作品の考え方において通じるものがある。
記憶がだんだん、曖昧になっているので、筆者がいる新聞社の記事を検索をしてみると、岡崎さんについては、1998年、当時、名古屋ガーデン埠頭にあったコオジオグラギャラリーでのまとまった展示を取材していた。
また、小川さんは1999年から2000年にかけ、名古屋市のギャラリー・セラー、岐阜市のギャラリーキャプションでの個展を取材して新聞などの記事にしていた。
その後、小川さんは国立国際美術館や千葉市美術館でまとまった展示をするなど、評価を高めた。一方、地元での展示は限られ、小川さんが名古屋で作品を展示するのは20年ぶりという。
岡崎さんも90年代以降、奈義町現代美術館、倉敷市立美術館、神奈川県立近代美術館、千葉市美術館などで大規模な個展を開催。
豊田市美術館に《HISASHI》などのコレクションがあるが、それを除くと、この地域では、あまり見る機会はなかったように思う。
その意味で、この2人展は、とても貴重な機会であるし、名古屋の現代美術史も思い起こさせるものでもある。
京都工芸繊維大教授の平芳幸浩さん(2006年の国立国際美術館での小川さんの個展を同館主任研究員として担当した)が今回の2人展に寄せた文章によると、この展覧会のタイトル《Behind the Garden》は、岡崎さんの重要なテーマである「補遺の庭」と小川さんの作品シリーズである《Behind You》からとられた。
今回、岡崎さんの「補遺の庭」は、3つのオブジェ作品で構成される。
岡崎さんにとっての庭は、オブジェが組み合わされ、空間性として目に見える世界から、もう1つの不可視の世界への想像力を掻き立てるものだといえる。
今回の3つのオブジェは、床に置かれたセメント製の頭蓋骨「床上の頭蓋骨」、水が盛られたの白銅の器「水の器」、骨になった手がつかむ、天井から吊るされた棒と切れたテグスの付いた床上の金色の玉「棒と球体」である。
庭を構成する諸要素の見立てとしてのオブジェに、死を想起させる骸骨を関連付けているのが特徴と言えば、いくらか分かりやすい。
その近くの壁に白い小さな《HISASHI》がある。上は球面で、下はフラットで、全体の要のように空間を見渡し、空間と境界、その裏側への意識を促すように配置されている。
日本の庭が自然の見立てであるように、この世界が構成されることのメタファーを示しつつ、生と死、そのつながりから裏側の異世界、さらには、部分と全体性を感じさせるようにしつらえられている。
これらの借景のように、小川さんの鉛筆画「ロンド5」がある。
写真だと思って近づくと、古い絵葉書、写真を鉛筆で精妙に描いた作品だと分かる。
絵葉書の表面に付いた痕跡、ひび割れまでも再現している超絶技巧である。
本来、1つであるはずの尖塔が反復するように繰り返され、手前の少女がフラフープを持つという、どこか異様なイメージである。
「アントワープ-ジュネーブ4、ダミアンのロンド」も、「ロンド」のシリーズで、尖塔が増殖している。
この「ロンド」や、次に述べる「対称性/非対称性」は、初期の《Perfect World》から発展したシリーズである。
「ボウゾフ -エアフルト1」は「対称性/非対称性」のシリーズ。
手前の左右の建造物や、道路中央の2人の人物が左右対称で、描き加えられている一方、奥の尖塔が非対称であるなど、対称/非対称が複雑に絡みながら、1つの風景が作られている。
これらは、写真、絵葉書などを基に、イメージを操作しながら、鉛筆で完璧に描いたイメージである。
それゆえ、元の空間の実在性の可否はともかく、基になったイメージが存在する以上、というよりも、そこからしか描き始めていない作品だけに、それに最も近接的なイメージでありながら、同時に、欠落や過剰をはらんだ仮構のイメージなのである。
世界と存在を考えさせるのは、そのためである。
《Perfect Dialogue》は、小川さんと、小川さんが尊敬する岡崎さんのツーショット写真を基にしたであろう鉛筆画である。
2人の手前には、岡崎さんの作品「仙人掌」がある。《perfect world》のシリーズは、もともと、1人しかない人間、1つしか存在しない物体を書き加える作品である。
画面には、「仙人掌」が描き加えられ、2つになっている。ただ、岡崎さんと小川さんが見つめ合うように対象になった構図と、《Perfect Dialogue》というタイトルから考えると、小川さんが自分が尊敬する岡崎さんを鏡像のような対称物として描いたともいえる奥深い作品である。
このほか、岡崎さんの作品には、ウイリアム・テルから連想され、頭骸骨の上にリンゴが載ったオブジェ「りんご」、「椿(造花)をいける」がある。
作品点数は限られるが、ギャラリーの取り組みとして、とても興味深い果敢な展示である。