L gallery(名古屋) 2020年2月8〜24日
1961年、三重県生まれで、愛知県立芸大大学院を修了後、ドイツなどを経て現在は同大准教授を務める竹内さんと、韓国のコンセプチュアル・アーティストで、小沢剛さん、チェン・シャオションさん(中国)とともに「西京人」を結成したギムホンソックさんの2人展である。
ギムホンソックさんは、6点のドローイングを出品し、あとは竹内さんの作品。全体に洗練された展示になっている。
ギムホンソックさんの作品は、他の人に制作代を支払って描いてもらったというドローイング。ペンや鉛筆で線を重ねていき、黒く塗りつぶすなど表現を削ぎ落とした作品や、老子の言葉「大方無隅」を横向きに書いた作品がある。
一方、竹内さんの作品には、人間の三大欲求の1つ、食欲をテーマにしたものがある。2008年にカスヤの森現代美術館(神奈川県横須賀市)に出品された「過剰な食卓」を再構成したものである。
ギャラリーのカウンターの上に、大量の磁器が廃品のように積まれている。磁器は温かみのある薄いクリーム色。皿、小鉢、ポット、マグカップなど、さまざまな器があるが、あるものは歪み、あるいは曲がり、潰れたり、捻れたりした状態。ほとんどは、エッジが解けだしたようになっている。
これらの歪んだ食器類は、本来、生きるための行為である食べることが、人間の過剰な欲望による無限消費に変容した現在の人間の姿を映し出す。竹内さんの例えを借りれば、「ライオンは空腹時にしか狩りをしない。
しかし、人間にはローマ時代の嘔吐部屋に代表されるように果てしない欲望がある」。野生のライオンと違い、欲望が骨がらみとなった人間は食べ続ける。
しかも、先進国になればなるほど、豊かになればなるほど、飽食になって、有名レストランの料理やブランド食材を食べようとする。つまり、欲望は、食べ物以上に、その食べ物が帯びる意味を食べることで自分を満たそうとする。
これらの器は、陶磁器メーカーの製造過程で失敗したものを譲り受けたかと思いきや、全て竹内さん自身があえて歪ませて制作したものだという。
メーカーの職人から譲り受けた石膏型に泥漿を流し込む鋳込みによって器を作り、半乾きの状態で手で歪める。解けたようなエッジの微妙な感じも、竹内さん自身が細かな磁土を使って形を作っている。
こうした本来の姿からの歪み、イメージの変形は、竹内さんの他の作品にもさまざまな形で現れる。それは、既存の物の見方を私たちに問いかけ、世界をどう見るかを考えさせる。
過剰な欲望によって、人間は、食べ物だけでなく、食べ物の意味を食べるようになり、意味、言葉、解釈、思い込みに縛られるようになったのではないか。
網膜に映っているものを見ている以上に、意味、言葉、解釈、思い込みを見ているのではないか、イデオロギーや制度、観念体系、価値観、欲望が促すものを見ているでのはないか。そんな問いかけは、シャボン玉の写真作品とも重なる。
竹内さんには、食への欲望や風景、モードなどをテーマに、シャボン玉に周囲の空間を映したシリーズがある。
今回出品された「過剰な食卓」では、歪んだ磁器とともに、「セザンヌのテーブル」を映したシャボン玉の写真作品が展示された。
セザンヌは、リンゴ、オレンジなど豊穣な食べ物が盛られたテーブルの静物画を多く描いた。竹内さんは、こうした美術史を引用しつつ、果物が盛られたセザンヌの静物画風のテーブルを実際に再現してシャボン玉に映した。
シャボン玉(の写真シリーズ)を竹内さんは彫刻の範疇に入れている。シャボン玉は壊れやすく、微妙な大気の状態、気圧のバランスの中で短い時間にしか存在しない。
球体の表面に映し出された歪んだ空間、世界のイメージは、小さな宇宙のようでもある。世界を映しながら、揺らぎ、はかなく消える。
シャボン玉は、網膜のように世界を映すが、それらは人間が与えた解釈、意味によって歪み、そして、うつろうように不安定で、刹那的である。
会場には、有機的な形の大小のアクリルミラーを幾重にも重ねた雲形と人型の作品がある。その1つ、「カットノンの雲」という作品からは、今回の展示の全体を貫く作家の思想を感じ取れる。
カットノンは、ドイツとルクセンブルク国境に近いフランスの街で、原発建設時にはルクセンブルクなど近隣国から反対が起きた。
では、そもそも国境とは何なのか。人間が恣意的に引いたものである。日本の原発もそうだが、面倒な施設は、過疎地や国境近くに押しやられるのだ。
歪なアクリルミラーが複雑に積層された作品は、この世界を歪ませ、乱反射させ、権力や国家、イデオロギー、「正義」など、意味や言葉、解釈、思い込みがある方向から見せようとする世界の見方を撹乱させる。
人間は、概念や宗教、価値観、イデオロギーなど、人間自らが作り出したものに縛られて生きている、それに振り回されてしまうという考えは、竹内さんの作品の通奏低音をなしている。
竹内さんが眠りをテーマにした作品をこれまで展開してきたのは、眠りが人間の作ったシステム、価値観、言葉、思い込みから解放される時間だからである。
マーブルのようにさまざまな色彩が不定形に混じり合ったガラスの枕は、特定のイデオロギー、意味、言葉から離れ、世界を混ぜ返した夢の中のメタファーにもなっているはずだ。