ガルリ ラぺ(名古屋) 2020年4月11〜26日
園田さんは心理学を学んだ後、1998年に渡英。ロンドン、ニューヨーク、バリ、フィリピン・マカティなど海外を拠点に写真を撮影してきた。
現地のごく普通の人たちの暮らしの中にあるものが被写体。一貫するテーマは生と死のあわいであった。
園田さんが帰国したのは2007年。その後、撮影対象を模索する中、たどり着いた1つが、冬の早朝、凍土の中で妖しい姿を見せていた野菜や花、茎、葉の類だった。
寒々とした中、役割を終えた、あるいは役割がないとして捨てられながらも、やがて土に還り、新たな生をはぐくむ大地の端くれとなっていく。
都会でもなく、田舎でもなく、それらのちょうど中間にある郊外の畑で、間引きのために掘り出され、捨てられた不格好な野菜や花は、本来であれば、店頭に並び、あるものは食され、あるものは季節を彩っていたかもしれない。
少し前まで瑞々しく生きていたものの、朽ち果て、大地の肥やしとなって別の生命の養分となるまで、まだしもくすんだ色彩を残し、生の残滓を燃やし続けているけなげな存在である。
それらは、生と死の狭間にあって、生から死へと向かう時間の流れの中で、現在の一瞬、かすかな生命力の精いっぱいの姿を見せている。
まがまがしいほどに、かつて生きていたことを訴える捨て身の状態だった。
海外で長く生と死を取材対象とし、日本に帰ってきた後に見いだしたのが「這う」という副題だった。
自由に、軽やかに動ける状態でなく、体を地面、床などに密着させて動くイメージが「這う」であろう。
ゆっくりとしか動けない、あるいは、じっと絡まり合った態様、それでも、その存在の力がこもっていて生と死のあわいで踏ん張っている状態。
園田さんにとって、「這う」は、地面や床の上、壁に限らず、狭間にあって蝟集し、どんよりとした、ざらついた存在感、皮膚感覚を刺激するものの謂である。
決して美しい写真ではない。むしろ、不気味でさえある。いずれも、とても生々しい胸騒ぎに取り憑かれる。
地面で枯れた蔓のようなものが絡まり合ったもの、捨てられ干からびた根菜、枯れた柿の実、闇に舞うユスリカ、死んだ魚と生きた蝶、夜の田んぼの闇と光。
朽ちつつも生の痕跡をかすかに留めた姿は、心をざわつかせる。
「生きている」でも、「死んだ」でもなく、その間の「生きていた」ざらつき、見える/見えないの境界にあるもの、都会でもなく田舎でもない土地、光と闇の境目、土に還る間際‥。
もう1つ付け加えると、園田さんは、プリントした写真に、透明なコーティング用のメディウムを塗って、表面の画質を丁寧に仕上げている。
メディウムの濃度を変え、一部は何度も重ね塗りするなど、プリントの物質感や透明感などをコントロールしている。
写真がイメージを超えて、光と闇の絵画を志向しているようだ。
園田さんが、大学で志望していた美術に進めず、絵画への憧れを持っているのも、作品の制作に影響しているのだろう。
カメラという機械装置が写した偶然の産物が、園田さんの対象と向き合う時間の中で光と闇の絵画となって、狭間だけがもつざらつき、胸騒ぎが一層確かなものとなる。
それは、作者自身の皮膚感覚、自分と外界との接触面を意識すること。
空間と空間、生と死、光と闇、時間と時間の狭間のざらつきを通して、世界と向き合う時間が、この作家にとってはとても大切なのだろう。
狭間にある美醜のきわを感じながら、自分の生と世界を確かめている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)