愛知県立芸術大学サテライトギャラリー SA・KURA(名古屋) 2021年11月13~28日
染谷亜里可 D.D.
染谷亜里可さんと、染谷さんのパートナーでもある今村哲さんによるアーティストユニット、D.D.による展示である。
染谷さんと今村さんは、それぞれに平面作品などを発表する一方で、D.D.として、体験型インスタレーションを展開している。染谷さん、今村さん、D.D.の作品は、それぞれに関係しあっている。
染谷さんは1961年、愛知県生まれ。1986年、愛知県立芸術大学大学院美術研究科絵画専攻油画修了。
今村さんは1961年、米国ボストン生まれ。1986年、愛知県立芸術大学大学院美術研究科絵画専攻油画修了。
筆者は、染谷さん、今村さんとも1990年代半ば過ぎに出会い、以後、作品を見てきた。
D.D.のイスタレーションは、これまで、「二重に出歩くもの」(2011年、愛知県立芸術大学サテライトギャラリー、+山元ゆり子 )、あいちトリエンナーレ地域展開事業あいちアートプログラム「岡崎アート&ジャズ2012」 での「半熟卵の構造」(2012年、愛知・岡崎シビコ、+出原次朗)、「ユーモアと飛躍」(2013年、愛知・岡崎市美術博物館)や「遠まわりの旅」(2014年、名古屋市美術館)、あるいは、「観客にとっては、“不意打ち”、歩くものにとっては“成果”」(2014年、15年、愛知芸術文化センター地下2階 フォーラム)、「Tilted Heads 」(2020年、N-MARK 5G)と、ほとんどすべてを見てきたように思う。
2021年は、D.D.が最初にインスタレーションを発表した2011年から数えて10年である。
今回の展示では、そんな節目となるD.D.のインスタレーション「王様だけがパンツを履く」と、ベルベットを脱色して逆説的にイメージを浮かび上がらせる代表作《Decolor》シリーズなどの平面作品によって構成されている。
すべては、「見えるもの / 見るもの」、ひいいては存在、不在をめぐる問いかけによってつながっている。
染谷亜里可 Works「第三の転回」 + D.D.「 王様だけがパンツを履く」
D.D.のインスタレーション「王様だけがパンツを履く」は、「Tilted Heads 」(2020年、N-MARK 5G)に通じる作品である。
D.D.の作品は今回も、ギャラリー空間に構築物が築かれた。といっても、単管パイプで構造体が組まれ、ターポリンシートが掛けられた程度の、至って素朴なものである。
シートが緑色ということもあって、全体は山のように見える。その斜面を屈曲しながら延びる布製チューブは、さながら九十九折りの山道である。
構築物に向かって右側の壁の高い位置に、《Decolor》シリーズの赤いベルベットの作品が掲げられ、そこに月と思われるイメージがある。山と月‥‥なんとも粋である。
これまでもそうだが、D.D.の構築物はいずれも「内部が外部より大きい」という逆説的なコンセプトで作られている。
したがって、内部は襞状や層状の構造、言い換えると、迷路のようになっているのが特長である。
「Tilted Heads 」のときは、壁に沿って作られた通路が伸縮性の布による層状構造だったが、今回も、斜面に延びるチューブが伸縮性のある布で作られ、鑑賞者はその管状の通路を通って、斜面を最上部まで這い上がれる構造になっている。
この伸縮布でできたチューブは、厚みがゼロと言っていいほどのぺしゃんこの空洞だが、内部は層状になったパラドクシカルな構造である。
いわば、外からはシンプルに見えても、中は複雑になっている。思い付きで申し訳ないが、筆者は、戸谷成雄さんのミニマルバロックを連想したりもする。
コロナ禍で、誰もが体験できる状況ではないので、デモンストレーションを映した映像が用意してある。
単管パイプやターポリンシートなど、工業素材による構築物は、一見、美術作品というよりは、見すぼらしいビニールの山に過ぎないが、実は意図的に、奥(上)にいくにつれ、幅が狭くなっていて、線遠近法で消失点に向かうような三角形の形態になっている。
かろうじて山のアナロジーになっている構築物も、斜面の九十九折りの道らしき伸縮布のチューブも、奥(上)に向かうにつれ、細くなって、遠近感が強調してあるのだ。
その意味では、高松次郎の「遠近法の椅子とテーブル」に通じる問題意識を想起させる作品でもある。
三次元空間を二次元平面に表現するための遠近法を形式的に取り入れた立体によって、見えているものと、見ること、見るという制度、実体との関係を問い直している。
養生シートを掛けた工事現場のような光景と山のイメージ、三角形の構築物と遠近法、あるいは、のっぺりした表面と内部が層状になった通路の構造が、見える/見るとの関係で錯綜したような感覚に導かれる。
こうした問題意識は、2019年のケンジタキギャラリーでの個展と共通するものである。
思えば、染谷さんの作品は、《Decolor》自体が逆説的である。脱色という引き算の発想によって、色の抜け落ちた部分が「光」に見えてイメージを浮かび上がらせるからである。
ここでも、見えることと見ること、実体との関係が問われている。特に今回の《Decolor》では、イメージが浮かび上がりつつ、同時に奥に入っている、つまり空間が凹んだイメージが作られていて、ここにも逆説的な視覚の仕掛けがある。
2019年の個展以来、染谷さんは、「第三の転回」という言葉を使って、こうした作品を提示している。
筆者なりに解釈すると、「見える」と「見る」はどう違うのか。そのわずかなあわいを拡張することで、この複雑極まりない、多様な世界から、何を取り出せるかという、そんな問題意識に貫かれている。
構築物の裏側に回ると、部屋のようになった内部には絨毯が敷かれ、ソファーまで置いてある。
つまり、この構築物をテントのようなものだと捉えれば、裏側から入れる内部は居間のような空間になっているとも言えるし、作品のただのバックヤードに過ぎないという見方もできるし、あるいは……。
世界は自律した1つのものなのか。染谷さんとD.D.の作品は、視覚と実体の関係を巡るイマジネーションをかき立て、迷宮のような異世界へと導いていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)