愛知県立芸術大学サテライトギャラリーSA・KURA(名古屋) 2020年10月10日〜11月8日
設楽知昭退任記念展 愛知県立芸術大学サテライトギャラリーSA・KURA
2021年3月末で愛知県立芸術大学美術学部油画専攻の教授を退任する設楽知昭さんの記念展である。2019年から2020年の近作をまとめて展示している。(2021年8月、設楽さんの突然の訃報が届きました。ご冥福をお祈りいたします。 関連記事はこちら。 )
併せて、愛知県立芸大「設楽知昭研究室」の修了生、在学生によるグループ展「絵の回路」展が、2020年10月6〜18日、愛知芸術文化センター地下2階アートスペースXで開かれた。こちらにも、設楽さんの作品が1点あった。
また、東京・不忍画廊では、2020年10月2〜24日、「設楽知昭個展 絵の幸福」展が開催された。この展示は、名古屋大学教授、秋庭史典さんの新著「絵の幸福—シタラトモアキ論」の出版記念展として開かれた。
拝見できなかったが、こちらは、ギャラリーのWEBサイトの説明によると、ミニ回顧展のような内容とのことである。
東京・CADAN 有楽町の「CADAN Showcase 04」展でも、2020年10月9日〜11月1日、設楽さんの作品が展示された。
以下の図版は、全て愛知県立芸術大学サテライトギャラリーSA・KURAで展示されたもので、記述と一致するものではない。
筆者が設楽さんの作品を見るようになったのは1996年。中日新聞の美術記者時代に、名古屋の画廊、白土舎の個展を取材したときが最初である。このころは、今と全く異なる、身体性を感じさせる作品だった。
以来、愛知県など、この辺りの展示については、ほとんど拝見したが、作家本人から作品について、じっくり話を聞く機会はあまりなかった(今回も取材はできなかった)。
当時、白土舎は、筆者が最も足繁く通う画廊だったが、設楽さんの作品については、画廊の土崎正彦さんから話を聴くことのほうが多かった。
1996年の個展では、目の前の鏡を薄く絵具で塗り、もやがかかったような状態で自分の姿を映し、そのもやの向こうの虚像がこちらを見返すような中、鏡に指で黒く描いてから、モノタイプとして紙に転写した。
既に、このとき、設楽さんは、描くとはどういうことなのか、絵画とは何なのか、という問題意識を強くもっていたように思う。
現実を再現しようとする(本当の意味で再現できないにしても)、あるいは模倣するのではなく、さりとて、抽象という非再現性へいくのでもない。再現性、抽象性とも排除した第3の方向である。
視覚と光学への関心がとても強かった。イメージはどこから来るのか、それは、眼球と身体、精神、記憶や夢とどう関わっているのか等々。
設楽さんは、鏡のみならず、手を使って、絵具を制作中の自分が身につけている衣服、すなわち身体にもなすりつけた。つまり、このときは客体化した支持体でなく、描く自身に描くという主客を重ねる思考があると思う。
ある対象を見て、時間差をおいて、それをキャンバスに再現的に描くという方法を既に超越しているのである。
視覚、イメージ、描く行為が、自分の身体、眼球、脳、生と死、夢(毎夜繰り返される小さな「死」)、自分自身の精神、宇宙などの概念を巡って思索され、ひいては、描く自分とは何か、自分という意識や存在が、どこにいるのかという問題意識があった気がする。
設楽さんは、鏡に油絵具で描いたところに石膏を流し込んで、石膏に転写するモノタイプも制作している。
絵具やチョークを使って素手で描く、自分の映る鏡に描く、着衣したまま自分の服に描くなど、この頃の設楽さんは、描くことと意識、視覚、身体のテーマでさまざまな実験を試みている。
2000年の白土舎の個展では、ポリエステルフィルムに油彩で描いた「手がきのポジフィルム」を発表した。自分にそっくりの人形(分身)を作り、その人形のいる日常的な場面がフィルムを透過するように転写した。
だが、それは、まるで幽体離脱した設楽さんが見ているような光景、夢(小さな死)の中の自分を見ているような場面なのだ。
人形は、ドッペルゲンガー(自己像幻視)のようである。ここでは、設楽さんがもう1人の設楽さんを諭す場面も描かれている。つまり、複数のドッペルゲンガーがいる。
それは、死後の世界のようにも思える。いや、もっと言えば、生死の概念を超えた、ひとつづきの不生不死の流れの中にある世界である。
このポジフィルム絵画は、人間の目に映る外界の光がまさにフィルムのように透過した仮象のようである。でも、実は、その外界の対象に実体はなく、それは、内界(意識)が作りだしたイメージなのではないか。
だから、この頃から、設楽さんの絵画は、夢の中のように見える。設楽さんは、自分の意識が作り出した実体のないイメージを身体の内側から描くように定着させているのではないか・・・。
それは、あたかも身体という暗箱・カメラオブスキュラが外界の光を取り入れ、内側にイメージを映しているようでありながら、その実、内なる自分が作り出している、内側から投影しているイメージである。
そして、このイメージをつくる私たちの全てが、そのときどきに同じようにイメージを内側からつくっている。実体と思っているものは、こうしたイメージではないか。
それらがつながって1つの宇宙としてある。設楽さんは、そんな世界を描いているのではないか。
と、ここまで、ぼんやりと感じたことを記述した。名古屋大学教授、秋庭史典さんの新著「絵の幸福—シタラトモアキ論」を読み終えたので、それも参考にしたい。
設楽さんの作品を20年来、見てきたが、説明はしにくい。
秋庭さんの著作は、 後半部分の設楽さん自身の解説的な部分を中心に、とても参考になった。幸福、生きる、希望、自由というテーマの前半部分は、私自身もとても興味のある部分だが、難しくて、ピンとこなかった。
設楽さんは、根源的な人である。しかも、美術の制度の中で根源的なのでなく、描くことに根源的である。この世界が分からない。自分がいることも分からない。それでも描きたい。どうすればいいのか・・・。
少なくとも、よく分からない自分を含めた、いくつもの並行世界が1つになった、よく分からない世界を隔てることなく、描こうとしている気はする。それは、例えば、生の世界、死の世界も、ひと続きに見る考えである。
そして、設楽さん自身、チベット仏教について触れているが、私自身が読んだ本の内容からも、仏教の世界認識は、ヒントになる気がする。
最近の絵画は、薄い白亜地にシルバーポイントで描き、淡い絵具で彩色している。
雲を含め、描かれている全てに始まりも終わりもなく、現れては消えるような雰囲気がある。それらは、決して滅びることなく、継続している。そんなふうに浮かび上がっている。
確か、STANDING PINEで会ったときだっと思うが、設楽さんが、ボッティチェリが「ダンテの神曲」で描いたシルバーポイントの線がいいという話をしていたことが記憶にある。その線で描かれた作品に、絵画の祖型のようなイメージを見たのかもしれない。
私たちが「正常」とされる視覚で見ている世界、それを描いて絵画とされているものが、唯一の絵画ではない。世界、時間、光、知覚、身体などが変われば、見えるものが違ってくる。
設楽さんは、さまざまな現象が現れ、消え、それでも持続する隔てない大きな世界のそこかしこを行き来しながら、絵画の時間、空間を自分なりの方法で模索しているのだろう。絵画は、それができるものだと信じて。