大島は、島全体が国立のハンセン病療養所「大島青松園」になっている。国の強制隔離政策で大島に施設がつくられたのは1909(明治42)年。以後の100年余で、2000人を超える人が大島で亡くなった。
1958年ごろの入所者数は700人以上、2019年9月現在は52人で、平均年齢は約85歳だという。1907年に隔離政策が始まり、「らい予防法」が廃止になったのは、ようやく96年のことだった。
国策の開始から110年余が過ぎ、元患者による国家賠償訴訟の熊本地裁判決(2001年)によって、元患者への補償が始まってからも18年。2019年6月には、ハンセン病家族による国賠訴訟の判決でも原告側勝訴となった。
島からの美しい瀬戸内海の眺め
名古屋造形大教授の高橋伸行さんが代表を務める「やさしい美術プロジェクト」は芸術祭初回の2010年から、大島で作品を制作してきた。
今回、新たに展示した「稀有の触手」は、手足にハンセン病の後遺症が残る中、表現の喜びに動かされ写真を撮り続けている大島青松園の入所男性、広島県出身の脇林清さんの撮影現場などでの姿を追った写真である。
高橋さんは、それらを、入所者が多い時代に住まわされていた長屋の空間にインスタレーション的に配した。
海岸から引き上げられ展示されている解剖台
壁や床、廊下、台所の流し台など空間の全てを群青で塗り、開け放たれた開口部から自然光がそのままに入り込んでいる。
写真は、建物内のそこかしこに展示。巡り歩くと、差別、隔離された壮絶な人生を生き抜き、ハンセン病の後遺症で指や足が変形している中、脇林さんが島内の自然に分け入り、被写体にカメラを向けている姿がある。
限られた条件下でも楽しみを見出し、自分の周囲の世界と関わって表現することを生きることに重ねているようでもある。
高橋さんが用意した現地の鑑賞ガイドによると、ハンセン病を患った脇林さんは戦後の1948(昭和23)年、17歳で大島青松園に入った。
島の「カメラ倶楽部」の最後の一員。いつも愛用のデジカメを抱え、「島の記録者」を自認している方でもある。高橋さんが写真を撮らせてほしいと打ち明け、撮影が始まった。
写真を撮る脇林さんは「ファインダーを通して生き物を、みる。生き物はみられていることをちゃんと意識する」と語ったことがあるという。
この言葉を聞き、高橋さんは、撮ること、撮られることのやり取りの生々しさ、切実さを脇林さんが知っていることを悟る。
脇林さんは、自身が世話人を務める島の「キリスト教霊交会」の、島内宗教地区にあるヴォーリズ建築の教会堂で、「ここは世界の真ん中です。何処かへ撮影に行くことはない。大島を撮り続けますよ」と語った。
脇林さんの手足は病気の後遺症で感覚がない。それでも、高橋さんが島内の撮影に同行すると、好奇心の塊となって、藪の中を進んでいった。カメラに体を絡ませ、撮影していく脇林さんに、高橋さんはその息遣いでレンズが曇るほど近く、わずか数センチのところまで接近して、カメラと一体化して緊張感を高める脇林さんと同期するように、その撮影する姿をカメラに収めていった。
熱いほどの脇林さんの表現への思いと存在する今のかけがえのないありようが高橋さんの写真を通じて、伝わってくるようである。
脇林さんが最後の1人となった大島の「カメラ倶楽部」の創設者で、活動の中心にいたのが、鳥栖喬さんである。鳥栖さんは1943年に15歳で大島青松園に入所した。
2010年に亡くなるまでに1万カット超を撮りためた。そのフィルムを脇林さんを通じて預けられた高橋さんは、そのフィルムに目を通すことが毎日の日課となっていく。
鳥栖さんは、1000ミリを超える望遠レンズで、ひたすら遠方を眺めては、夕陽や朝陽、対岸の四国と大島の間を通りすぎる船などの海景、あるいは、星空や天体を多く撮影した。
そうしたフィルムと向き合っていると、鳥栖さんがファインダーを覗いた瞬間の情動が高橋さんの中に流れ込んできたという。
鳥栖さんは、感覚が麻痺し、指が欠損している手をカメラに添わせるための自助具も数多く遺した。
それらは、木片や金属片を結びつけたもので、鳥栖さんは、あらん限りの手間と時間をかけて、カメラと一つになり、レンズを通して自らの目を遠くへ、遠くの世界へと解き放った。
この鳥栖さんの写真については、椹木野衣さんの秀逸な批評に詳しい。
島から出られなかった鳥栖さんらにとって、「遠く」は、永遠に到達できない彼方であり、撮影は、それを手元に手繰り寄せたいという純粋な行為としての意味を持っていた、と。
詳細はART iT 45:再説・「爆心地」の芸術(20)〈やさしい美術〉と鳥栖喬(後編)
高橋さんは、こうした鳥栖さんが憑依し、その存在の分身となったかのように「鳥栖喬」の名を「襲名」し、2016年の芸術祭には、鳥栖さんのフィルムから焼いた写真や自助具を展示した。
それらは、鳥栖喬さんの存在と記憶、表現が高橋さんを通じて呼び覚まされ、強制隔離という国策の歴史を内破して、それを見る人たちの元に届けられたものだと言えるのかもしれない。
「ファインダーをのぞいている時が、すべてです」。脇林さんはそう話し、鳥栖さんのフィルムにも相通じるものを感じると語ったという。
鳥栖さんと脇林さんの間にほとんど交流はなかったが、脇林さんは今、鳥栖さんが晩年に語った「カメラ倶楽部をどうか頼みます」という言葉の重さをかみしめている。
「やさしい美術プロジェクト」は、脇林さん、鳥栖さんの展示以外にも、これまでに、{つながりの家}として、「カフェ・シヨル」(現在は社会交流会館に移転)や「GALLERY15」「ガイドツアー」などを運営。
入所者の生活用品や遺品を展示し、島や療養所の記憶を作品化したこともある。
入所者の方々の記憶を伝えるべく、長屋の「15寮」には、逃走防止で船を造れなかった時代もある中で1956年に造られ、島に唯一遺された木造船も展示。今回も「{つながりの家}GALLERY15『海のこだま』」として見せている。
島で暮らす人たちと出会い、島の歴史と入所者の痛苦の記憶を体に染み込ませるようにじっくり時間をかけて信頼関係を醸成してきた過程があってこその作品である。
ここにあるのは、大文字の歴史の回復というよりは、存在と尊厳がないものとして、島で暮らしてきた個々の人々の記憶の回復である。
そして、歴史は、そうした人々の存在と尊厳によって回復されるのである。
やさしい美術プロジェクトは2002年から、愛知県豊田市の足助病院で活動を始めた。筆者は2004年、新聞記者時代に、愛知県小牧市の市民病院にアート作品を設置する取り組みを取材したことがあるが、その後、久しく、このプロジェクトを取材する機会を逸してしまっていた。
高橋さんは2015年、足尾鉱毒事件の足尾(栃木県)を源流とする渡良瀬川の石で彫られた、行き場を失ったお地蔵さんを「旅地蔵」と名付け、リヤカーに載せて阿賀野川をさかのぼって旅したプロジェクトでも注目を集めている。
高橋さん以外のアーティストを含め、大島の作品には、孤絶の島で暮らし、人生を全うする人々の記憶を紡ぎ、人間の尊厳や、世界、人々とのつながりを回復させ、希望をともしたいという思いが込められている。
展示室などがある社会交流会館も2019年4月にグランドオープンした。ここには、ハンセン病に関する基礎的な知識を学べる展示や、入所者の人たちの生きたあかし伝える資料、1958年前後の約700人が住んでいた頃のジオラマなどがある。
瀬戸内国際芸術祭2019の秋会期は9月28日〜11月4日。