ギャラリーA・C・S(名古屋) 2020年9月26日〜10月10日
関野敦展 ギャラリーA・C・S
関野さんは1958年、岐阜県生まれ。愛知県を拠点に制作し、現在は、江南市在住である。長年、版画をベースにした絵画作品を発表。インスタレーション作品を制作したこともある。
愛知県立芸大で油彩画を中心に学んだ後、山本容子さんなどから銅版画を吸収した。
A・C・Sでは、1994年から、個展を継続している。
作品を見ると、さまざまなイメージを取り入れ、画面に共存させていることが分かる。抽象と具象、日常と非日常、暴力性と静穏、過去と予兆、近いもの、遠いものなど、さまざまな要素が並置される。
日常の断片的な出来事、身の周りの情景と、メディアを通じて伝わってくる膨大な情報、イメージ。混然として流れ込んでくるそれらに、どう向き合っていけばいいのか。
おびただしい情報の中で、それぞれの人たちが一体感を失い、張り巡らされた壁を感じている。そうした「分離」の時代、あるいは、人種差別、移民排除、格差など、世界で進む「分断」。そんな状況がテーマになっている。
そうした主題は、1つの画面に多様な要素、異質なものが共存している作品の成り立ちにも反映されている。
鉛筆、アクリル絵の具、キャンバス裏面、印刷物の紙片など、さまざまな画材、素材が使われる。
写実的な表現、 抽象的な形象、アンフォルムな塊、数字、モノクロームと色彩、コラージュ、荒々しいタッチ、細く静かな輪郭、絵の具の飛沫、物質性と空間性・・・。多様な要素が混在する。
具体的なイメージも、花、スプーン、人物、建物、過去の歴史的な画家のドローイングの引用など、多くのものが画面に呼び込まれている。
そうしたイメージは、ある場合には、矩形のフレームをかたちづくり、空間の中に距離を置いて配置される。あるいは、レイヤーが重なるように、静かに折り重なっている。
それぞれの要素が分かりやすい全体像を結ぶことはないが、干渉を全く避けているわけでもない。静かな化学反応ともいうべきか、作用、反作用が起こり、小さな葛藤を生んでいる。
日常的、生活的なもの、穏やかなものがあるかと思えば、異質なもの、理解できないもの、不気味なものがやってきて、情動をかき乱す。
だから、関野さんの作品は、一見、静かに見えても、不穏さがはらまれ、嵐のように見えても、その裂け目から日常が姿を見せる。
おのおのの要素、部分は、否定されるわけでも、肯定されるわけでもなく、イメージが降りてきて画面に憑依したように、ただ、そこにある。
そうして、全体が何かのメッセージ、特定の具体的な状況を強調することはないので、一見、関野さんの作品は、分かりにくい。
全体として、現実の風景を再現しているわけでも、特定の形象にファーカスしていているわけでもない。
意味を安易に表現することはなく、抽象的な線や色彩、雑多なイメージが、時に窓のように区切られた枠内に収まり、時に浸潤するように越境し、時にレイヤーとして重ねられる。
もちろん、作品としては全体性はあるのだけれど、部分が 全体を構築するのではなく、むしろ、特定の意味に集約されることを回避する。
国家や理念、宗教、主義、思想などの大きな物語に仮託されることをしたくないのだろう。
だからこそ、じっと見詰め、おのおのが感覚的に、創造的に、あるいは、自分の記憶に沈潜した感情に照らして、見ることができる。
作家本人も作品について、あまり語らない。作品が限定的に受け取られる、作品が形骸化されるのが嫌なのだろう。
世界の混沌、身の周りの情景、記憶と感覚、感情。大きな物語に回収されない、この複数性こそが人間の豊かさ、もう1つの真実なのだろう。
流れに身をまかせつつ、今、自分がいる瞬間の場、生きている肌触り、目や耳などの感覚に入ってくるもの、記憶にあるもの、心の中のさざなみと静かに向き合うこと。
作品の全体を認識しようとしたとき、難しいところは確かにある。全体像が意味するところを声高に叫ぶのではないから。
むしろ、見る側が、その全体像を包むものを感じるといいのかもしれない。私たちが、全体と思う作品は、部分に過ぎない。本当の全体は、寛容で、全てを包み込むものであるはずだと。