2020年10月17日〜11月1日、作品を一部展示替えし、再展示
下記の展覧会について、2020年10月17日〜11月1日、再展示される。
展示の詳細は下記の通り。
masayoshi suzuki gallery(愛知県岡崎市)
2020年4月11日〜5月3日(途中から休廊)、その後、休業協力要請延長に伴い、特別開催(5月7~10日)も中止
関智生展 青花 実存南画再
関智生さんは1965年、奈良県生まれ。筆者が知り合ったのは、名古屋芸大卒業後、1998年に渡った英国から帰国した翌年の2004年ごろである。英国では、ノッティンガム・トレント大学Fine Art(愛知県新進芸術家海外留学等補助事業研修員)で修士取得、セントラル・セント・マーティンス・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインでAssociated Studentを修了。帰国した当時は、絵の具がキャンバスに穿ったいくつもの穴を通して、裏面から表面に押し出された奇妙な絵画作品を発表していた。
その頃から、戸外で眼前にある樹木や草むらを対象にモノクローム絵画を描くようになる。最初は、樹々の緑を補色の赤一色で描き、2015年ごろからは、東洋の磁器の呉須を意識した青色でも制作する。色彩を単色に絞ることで、筆触を強調した作品にするのが狙いだった。つまり、単色だけに色彩が印象に残るが、色彩か線かといえば、関さんの絵画は、線あるいは微細な筆触による絵画である。
関さんは、美術を制作することに対して、現実存在に重きを置き、自分の眼の前にある対象を屋外で自然主義的かつ実存主義的に描く自身のスタイルを「実存」と呼ぶ。池大雅らの南画の方法論を西洋絵画の文脈に接続していることから「南画」であるとも主張。実存×南画ゆえに「実存南画」と命名しているのである。
今回の作品は、名古屋市名東区の牧野ケ池緑地がモチーフ。描きやすいようにキャンバスを地面に15度ほどの角度で傾けて置き、岩絵具「天然岩群青」 をアルキド樹脂で溶いて描く。大まかな下絵を描いた後、揮発精油を吹きかけて画面を濡らしながら見たままに再現。キャンバスを立てかけないのは、絵具が流れないようにするためでもある。
関さんの実存南画では、現場で描ききることが重要である。8号であれば1日、30号なら3日で仕上げる。風景の時間(外界の時間)と現地で描く自分の時間(内なる時間)、すなわち世界と身体内部の一体化を図ることが関さんにとっては大きな意味を持っているのだ。
頭の中で考えた新しいトレンドに対して漠然と与えられもした「ポストモダン」に対して、自分と風景の時間を一致させ、あくまで現地で描くことに執着することで自然主義的な描写、南画的な筆跡、点描の復活を図っているわけだ。
視覚的に忠実に描いているというが、具象でありながら単色の線や点、滲みで構成されるせいか、全体には抽象的にも見える。岩絵具のほか、墨、透明水彩、テンペラも併用。日本の伝統的なモノクローム絵画である水墨画を思い起こさせながら、西洋絵画をも意識した制作になっている。
関さんが渡英したのは1998〜2003年。帰国当初は、フォーマリズム的に絵画の形式を探求するスタイルが強調された作品を目指していた。キャンバスの矩形の表面に絵具の色が載っているという絵画の本質的な形式に対して、裏面から描いたらどうなるかなどと思案する中で、キャンバスに丸い小穴を多数穿ち、裏面から描いた絵の具をスキージ で表面にこすり出す作品である。絵具がいくつもの小穴から押し出されるときの色彩の混色や物質感の偶然性が意識された作品でもあった。
帰国後、しばらくたった後、基本に立ち返ろうと風景を戸外で描く試みを始める。公園の緑の樹々、草むらを緑の補色の赤色で描いたモノクローム絵画である。
見慣れている公園の風景、平凡な樹木の枝振りが、あたかも体内に延びる血管にも見え、外の世界と身体の内部環境が呼応する。作品は、風景画でありながら見る者に全く異なるインパクトを与えた。自然を忠実に描いたものがこの世でありながらこの世とも思えないものになる—。
そこには浮き上がるような血管、縄文土器にあるようなプリミティブな模様、まがまがしいばかりの日本の森の生命力、高温多湿な日本の風土、デロリとした不気味さが赤色の線と点によって増幅されていた。
現在は、赤色以外に今回の個展で発表したような青色も使う。赤がむせ返るような日本の森、血管のような生命力を感じさせるとすれば、青は東洋の磁器に描かれた呉須の模様を絵画として成立させた雰囲気を持っている。
いずれにしても単色の絵画である。南画のとらえ難さはあるのだが、関さんは、基本的には、点描や筆触による表現を南画的な技法として用いている。樹々の葉の重なりによる影の部分を無視して、あえて明暗を反転させているところを含め、立体感を出さない。
部分的に明暗法で描くこともあるものの、全体には、点や筆触の広がりである。見たままを描いたという細い線や点の筆触がわずかな奥行きの感覚とともに不定形に広がり、余白の空間と分かち合う画面は、自然を忠実に写したというのとは裏腹に、むしろ、関さんの内なるものを示すような自律的な蠢きを感じさせる。
見たままに描いているというリアルさと、全く違うもの、抽象絵画に見えるというリアルでない感覚が両立する白昼夢のような作品になっている所以だろう。単色絵画だけに、描いている部分と描いていない部分の地と図、実と虚の関係が震えるように反転するような感覚にも導かれる。
今回、画廊1階の空間では、同一スケールの矩形キャンヴァスの20号と8号をそれぞれに上下2列に同一間隔で展示した。 それぞれは別の絵画でありながら、キャンバスのサイズ、形、間隔が一定に保たれているため、全体が一体化され、離れた位置から見ると、あたかも1つの大画面として森を眺めているような印象を受ける。一方、比較的近い位置を移動しながら見ると、森の中を散歩しているようにも感じる。
他方で、「絵画とは何か」という一貫した問いかけは、単色絵画の連作でも響いている。画廊1階では、各キャンバスの4つの側面は、マスキングして厚みの半分までイメージを描き、残り半分はキャンヴァス地のままにしてある。キャンバス表面の青のイメージは側面の途中まで続き、その後、一気にオブジェクトであることを意識させる。地階の作品を含め、絵画、オブジェクト、インスタレーションを巡る思考が作品展開からにじみ出ていた。