See Saw gallery+hibit(名古屋) 2019年11月2日〜12月21日
佐藤さんと、末永さんは、それぞれ全く違う方法で絵画とは何かを探究している。その手並みは、一見、そうとは全く思わせないほど自由で、軽やか。遊びながら見る者を楽しませていると思わせるほどである。逆に言えば、美術作品はまずは見た人が自由に楽しめばいい、自然体で作品と向き合えばいいという、おおらかな作品を装いながら、フォーマリズム的な意識がしっかり組み込まれている。
佐藤さんは、1973年広島県生まれで、99年に愛知県立芸術大大学院を修了した。絵画を巡る冒険のように、絵画を解体、あるいは拡張するように自在に作品を展開させながら、大仰でないので、一見、だらりと弛緩したようにも見える。地と図、色彩と線、絵画構造と支持体、空間と平面性の関係など、絵画を成立させる諸要素を分析・解体し、ずらすことで表現の面白さを見せてくれる作品は、知的な探究と面白く見せることの作法が対立するものでなく、両立しうることをも示す。
例えば、ある作品では、グレーの地に色遣い豊かな曲線、直線が図として描かれ、箱のような形態や文字も見える。箱の表面にイラストのような線で鳥のくちばしや目、羽などが描かれ、「ぴよぴよ」「ピヨピヨ」[Cheep Cheep]と、鳥の鳴き声が平仮名、カタカナ、英語で反転して表記されている。何よりも、グレーの地色に対する線の色彩の豊かさが大変魅力である。
地にも、グレーの濃淡や筆触、塗り残しがあって、絵画空間が作られている半面、物質的な平面性も示唆されている。グレーの地色の空間性とは別に、描かれた箱にも奥行きがある一方、箱の各辺の直線は、地に対する図でもある。だとすると、鳥のくちばしや目、羽はグレーの地に対する図なのか、直方体の表面に描かれた図なのか。鳥は、グレーの地に対する図として絵画空間を成り立たせると同時に、箱の表面に描かれた図としても立体感をもっている。
あるいは、反転した「ぴよぴよ」「ピヨピヨ」[Cheep Cheep]は、グレーの地に対する図であるが、反転していることに注目すると、向こう側が表面で、私たちが見ているのはスクリーンの裏面だということもできる。ここでは、絵画がイリュージョンにすぎないということを改めて思う。「これは鳥の絵です」と言ったとき、その普通名詞は、何を指すのだろうか。
キャンバスを傾け、ストライプの方向を変えつつ、太い線で区切ることで絵画の境界について思いを巡らした作品もある。豊かな色彩のストライプをじっくり眺めると、錯視的な効果もあって興味深い。同じ色彩模様のストライプが繋がるように描かれ、そのレイヤーが下層にあるように見えながら、互い違いになっているようにも、断絶しているようにも見える。あるいは、別の色彩模様のストライプが下層で繋がってL字になっているようにも見える。全体が1つの平面でありながら、錯綜したレイヤーが重層化しながらユニークな絵画空間をつくっているようにも、境界で別の絵画に区切られているようにも見える。
他にも絵画の平面性と奥行き、空間、地と図、色彩と線、側面や表側と裏側、支持体の構造、イメージと装飾、反復パターンなどそのものを題材に、真摯に、しかもユーモアたっぷりに制作した作品が引きつける。絵画が絵画でなくなるときの限界を超えたように思わせつつ、絵画に戻ってくるような手並みである。自由な発想と試行錯誤の中にあっても、色彩の魅惑やイメージ、形の面白さ、絵画の解体や拡張の意外性があって、ラボで自由に実験しているような作品は心地よく楽しめる。
末永さんは1974年山口県生まれで、東京造形大を卒業した。段ボール箱やテープ、付箋、キッチンスポンジなどをモチーフにした、立体的な要素をもった絵画を制作している。実物と同じサイズの立体を合板で作り、インスタレーション的に展示。支持体が木製合板で組まれ、中が空洞であることはもとより、表面に細心の注意が向けられ、彫刻でなく、絵画として作られている。本物と同一寸法にし、色合いもそっくりなので、実物と見間違えそうになることもあるが、そうすることで実物らしさや、質感の再現を目的にしているわけではない。
例えば、「段ボール」が無造作に積まれ、脇に「粘着テープ」が重ねられている作品がある。合板を直方体あるいは円柱に張り合わせ、上から本物のデザインそっくりに描いたもので、アンディ・ウォーホルが合板の箱にイメージをシルクスクリーンで転写した「ブリロ・ボックス」を思い起こさせもする。末永さんの作品は、梱包した後の段ボールに青い粘着テープが貼られたように描かれ、段ボールであろうかと思わせつつ、線的な要素やイリュージョンを生むものは排し、色彩の面を極めて絵画的に塗る一方で、マチエールやタッチは強調されず、見る者に異化効果を生んでいる。ポップアートであるウォーホルの「ブリロ・ボックス」が、芸術について問いかけているのに対し、末永さんの「段ボール箱」は、作品構造と平面性、正面性、色彩と絵の具の塗りなどによってフォーマリスティックに絵画について問いかけている。
付箋や、キッチンスポンジのような作品も、木製合板の箱を作って、線や質感を捨象し、色彩によるシンプルな構成で絵画性を感じさせる表面と絵画の形式を強く意識しているのが分かる。それは日用品や文房具の形、大きさと色彩を再現したにすぎないとしても、絵画的なフラットな絵の具の塗りが洒脱で美しい。そして、各平面のイリュージョンは排除され、空間性は立体そのものによって代弁される。その全体を色彩で塗られたオブジェクトとしての性格は、絵画に本質的な平面性と、絵画空間、物質的条件の相克を思わせずにはおかない。それは、画家が区切られた支持体の正面の絵画空間と平面性を意識しながらも、常にそれだけでなく、絵画の物体性、空間の拡張性として、側面や裏面にも意識がめぐっていることと無縁ではない。
一方、hibitでは、遊びのようでありながら、なかなか興味深い展示が行われている。昨年3月に横浜のblanClassであったグループ展「名をつくる」の一部を再現展示したものだ。アーティストの名前からイメージされる作品を作ってみる、自分の名前を忘れて、架空の別のアーティスト名として作品を作ってみる、つまりアーティスト名のイメージと、作品のイメージがどう結びつくかを実験的に試した企画である。
佐藤克久さんが、サイ トゥオンブリーをもじった「斉藤武利」(「さいとう・ぶり」)という名前を決め、その名前のアーティストなら、こんな絵を描くだろうという素朴な風景画を描き、別の誰かが、その作品は見ずに名前のイメージだけで創作する(今回は展示されていないが、抽象絵画になったそうである)。あるいは、末永さんが「水江あかね」という架空のアーティスト名を決めて描き、その名前だけ聞いた佐藤さんも描いてみる。こちらは、ともにアニメーション的キャラクターの絵になった。あるいは、「色川角夜」の名前で誰かが作った作品(その作品は展示されていない)を見ずに、末永さんが名前だけを聞いてイメージし、立体を制作した。作家の固有名が作品のイメージを喚起することが確かにあって、面白い。