Gallery noivoi(名古屋) 2022年9月30日〜10月9日
Sarah Fujiwara
藤原更さんは愛知県津島市出身。現在は、名古屋市を拠点に作品を発表している。幼少の頃から、祖父の二眼レフに触れていたが、写真を本格的に学んだのは20代後半である。
狩野派や琳派などの日本の美術や庭園、建築が身近にある環境の中で育ったことも、後の創作に影響を与えている。
当初は、ドキュメンタリー写真に取り組んだ。1999年には、大病を患った自分自身を被写体に、闘病中の治療の過程を病院でセルフドキュメントとして撮影。作品を院内の通路で発表した。その個展『四角い窓』を機にアーティストへと踏み出した。
このとき、名古屋・新瑞橋から岐阜県瑞浪市に移ったばかりのギャラリーないとうで個展を開く機会も得た。2001年にフランスで最初の個展を開いて以降は、日本とフランスを往復。海外での発表歴が多い。
『四角い窓』 の作品自体が、単なる記録写真ではなかった。医師や看護師にもカメラを渡し、藤原さんの身体を撮ってもらうという手法や、病院内での展示など、プロセスそのものが、自分の生や存在、撮影する行為を問い直すものであった。
その後、モチーフは、雲、蓮の花、薔薇、芥子へと展開した。2007年に南西フランスで、一面の芥子畑に出会った後は15年ほど、芥子を撮り続けている。
ギャラリーノイボイでは、6年ぶりの個展となる。
近く、造本家の町口覚さんの手によって作られたART BOOK『Melting Petals』が出版される。
今回は、その中に収録した芥子のシリーズ『Melting Petals』の一部を展示した。2007年に撮影して作品化した最初期の作品と、コロナ禍に制作した最新作で構成している。
Melting Petals
『Melting Petals』 は、溶ける花びらを意味する。筆者が初めて藤原さんの作品を見て感じたのは、絵画的なイメージであることだ。
芥子の花弁や葉が絵具のように溶け出し、相互に浸透し合い、実在と不在のあわいに漂うような印象である。像が揺れ、流動化した幻覚のようなイメージだと言ってもいい。
筆者は、CGによってイメージを加工しているのだと思ったが、パソコン上での合成や加筆、コラージュなどはしないらしい。あくまで、撮影のときに色をつくるのがベースである。
例えば、夕日の中で撮影するなど、時間帯、光、風による揺れなど、撮影という行為に伴ってイメージがつくられる。その意味で写真家としての方法論がベースである。
(再)撮影、転写、現像、プリントなど、一連の重層的な写真プロセスに関わる中で、にじみ、溶解するイメージがつくられていく。できた写真は1つのイメージだが、そこにはいくつもの見えないレイヤーが重なっているともいえる。
明治時代に、日本画家の横山大観や菱田春草らが空気や光などを表現するために、輪郭線を使わず、ぼかしを取り入れて表現した「朦朧体」が思い起こされる。朦朧体が絵画の描き方によって実験されたのに似て、藤原さんもPCによるデータ処理でなく、写真の技術の延長で加工しているのである。
では、なぜ、あえて、イメージを、液体のように溶けてゆく、あるいは浮遊する、おぼろげなものにしているのか。藤原さんは、「記録」としての写真を「記憶」に近づけるためだとしている。
言い換えると、藤原さんは、写真のプロセスによって、記憶の中の絵を描いている。
それゆえ、あえて、藤原さんは撮影年と、制作年を分けて、タイムラグを大切にしている。その時間のずれが、藤原さんが生きてきた時間の厚みでもある。
そう考えると、個展『四角い窓』における闘病の過程を撮った作品と同様、藤原さんは、いのちの記憶をテーマにしていることが分かる。
言い換えると、機械としての光学装置が捉える像と、頭の中の記憶の残像との違いであり、カメラが撮影した像が過去の記録、すなわち「死」だとすると、記憶の像には、そのおぼろげさに反比例するように藤原さんの「生」の時間が積み重なっている。
その意味で、芥子は、生きてきた藤原さんのいのちのメタファーでもある。
「溶ける花びら」は、藤原さんが自身と対話を重ね、うつろう自然の時間を薄れゆく記憶とともに自分の生に重ねたイメージである。おぼろげに漂いながらも、そこには、生命の手触りが記憶されている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)