Gallery 芽楽(名古屋) 2021年4月10〜25日
三波千恵さんは1980年、大阪府生まれ。2010年に愛知県立芸術大学大学院美術研究科を修了した。
ギャラリー芽楽での個展のほか、2015年、はるひ絵画トリエンナーレ(愛知・清州市はるひ美術館)、2019年に「ゆくりか」(see saw gallery +hibit /名古屋)に出品した。
ギャラリーによると、三波さんは、自分の制作スタイルについて、「絵は意味や目的のようなものから自分を自由にしてくれるもの」と語っている。
確かに、三波さんの絵は、一見すると、子供の落書きのように見える。具体的なモチーフを対象として描いたようには思われない。
仮に何かのイメージが作家本人にあったとしても、それを伝えることが狙いではないし、「抽象画」を描こうという意識すらない。
また、絵画の形式を追究した作品でもない。キャンバスに絵具やペンのような画材で色彩の線、筆触を重ねているので、そこには、自ずと空間が生じている。
そのことを含めつつ、どこまでも「絵画」らしくない絵画にしようとしているのだとすれば、ある種の形式性を問うているのかもしれないが。
それぞれの筆やペンの動きは、整ったものではなく、あえて、そうしているのは明らかである。
筆やペンを動かす仕組み、ルールをずらし、曖昧で意味不明、行き当たりばったりの風情にしている。
そうでありながら、多くは中間色で、余白が十分にあるため、窮屈ではない。むしろ、眼差しを遊ばせられる空間がある。
縦や横、斜めに線が伸びていても、伸びやかな感じはしない。ためらいがちで、絵具はかすれ、ときに線は折れ曲がる。
絵具が多く塗られている場合も、筆が不意に止まったような感じ、あるいは向きが変わった印象があって、法則がなければ、リズムもない。統一感をあえて回避しているのである。
いわば、意識して絵画が「絵画」を外している。
無邪気に、道に迷ってしまった線や色彩、筆やペンの動きが、互いに互いとの遭遇を驚くように出会っているのである。
だから、何かのイメージに向かって描いたものではない。
ある色彩なり線をキャンバスに載せると、絵画空間が常に新しく変わっていく。
それを見て、次の色彩なり線を加える。すると、空間が変わるので、また何かを加える。
先のことはわからない。描くときに、これが正しいという判断をせず、こうすればうまくいく、成功するということも考えず、《今》の感覚を感じ、できることを楽しむ。
そこでは、描くということの体験、《今》できる執着のない自由な描くことだけが進んでいく。
三波さんは「何も描いていないような絵を描きたい」「どこにもつながらないような絵が描けたような気がするとき、絵が勝手にすきな方に行ってしまう」と書いている。
正しい判断、自己否定をしない自由な絵。執着なく、一歩一歩歩いているような絵である。
執着すると、「何かをしなきゃいけない」という絵になる。
例えば、焦点をどこにするか、オールオーバーな絵画になったりとか、空間を意識したり、あるいはイメージが湧き起こったりとか・・・。
三波さんの絵画には、それがない。
むしろ、歩きながら、そのとき、そのとき、目に入ったもの、自分の体や存在の感覚、できることを楽しんでいる。
自分を認め、自分に優しく、「こうあらねば」を捨てている。だから、本人の心と絵が乖離することなく、絵から本人が置いていかれることもない。
だからだろう、この絵には、確かにこの三波さんの体の感覚、息遣いがある。無駄な思考や想像(妄想)がなく、三波さんが歩いている(少し早歩きのように感じるところもある)ような呼吸がある。
それは、生きているリアリティー、描くという直接的体験であろう。
線を引き、筆触を加え、色を置く。それらを重ね、空間ができること、その自由と心地よさを体と存在の感覚で楽しんでいる。
そのそぞろ歩きを私たちも追体験できる。作家本人とルートは違うけれど・・・。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)