Gallery 芽楽(名古屋) 2021年9月4〜19日
作田優希
作田優希さんは1995年、愛知県出身。愛知県立旭丘高校美術科卒業。
名古屋芸術大学美術学部美術学科洋画コースで、吉本作次さんから学んだ後、京都市立芸術大学大学院美術研究科修士課程絵画専攻(油画) を修了した。
現在は、京都市を拠点に制作し、関西と名古屋で発表。芽楽での個展は、2019年以来2回目となる。
2016年ごろから、名古屋芸大在学中に交換留学で滞在したドイツの風景をイメージの源泉に、樹木の枝の広がりや幹の質感、密集する森の空間をモチーフにしていた。
やがて、メルヘンにおけるおぞましい場所としての森、あるいは、生命力に満ちた森など、相反するイメージがせめぎあう中で、多様なイメージがしのびこむようになった。
森や樹木とともに、人物や動物、花、建物などのイメージが、震えるようなおびただしい筆触の中に溶け込み、混淆する。それらが、絵画空間の中でポリフォニックに響き合い、色彩が強調されるようになった。
色面の広がりは抑制され、細い筆や平筆を縦にして引いた細く物質的な絵具の筆触がかすかな揺らぎを伴いながらイメージを立ち上がらせ、同時にイメージを侵食している。
ところどころに、画面を区切るように意識的に引かれた線や、筆触の中につくられた断層さえも、空間を峻別するというよりは、ゆるやかな境界に過ぎない。
今回、イメージを想起させる起点になっているのが、ミヒャエル・エンデやカズオ・イシグロの物語世界や、作田さんがよく聴いていた歌詞などである。
それに、旅の風景の記憶や写真などのイメージの断片が加わり、こぼれんばかりの色彩と過剰な筆触の中に溶け込みながら絵画空間をつくっている。
此処は私の居場所じゃない
「名前のない、誰でもない庭」は、ミヒャエル・エンデの未完作「だれでもない庭」のイメージから描かれた。
筆者はこれは読んでいないが、エンデの「モモ」と「はてしない物語」をつなぐ作品で、「モモ」の世界観を継承しつつ、「はてしない物語」の原型にもなった短編草稿のようである。
作田さんの「名前のない、誰でもない庭」は、縦1.5メートル、横3メートルの大作である。
全体は、色彩の筆触が覆った森の密林のようであり、画面の中央には白を意識的に使った、抜けるような空間が見える。色彩の中に浮かび上がる扉のイメージも暗示的である。
「マージナルマン」は、歌詞のイメージから描かれた作品である。画面の上部に顔が描かれ、その周囲に幾筋もの線が走って画面が分割されている。
1つの世界に限定されず、複数、多様な空間に同時に属しながら、どこにも完全な帰属先がない境界性、周辺性が主題になっている。
「剥落」は、カズオ・イシグロのいくつかの小説のイメージが混じり合い、記憶をテーマに描かれた作品。
小品の「誰かのために生きている」や「どこ?」もそうだが、作田さんには、多彩な色を密生させたような作品と、色をあえて限定的に使った作品がある。
森は、作田さんにとっては、いまや、森そのものというより、密生する色彩の中にさまざまな記憶やイメージが混じり合うためのメタファーである。
描く中で、絵画空間が、モチーフの形や構図の溶解、重力からの遊離、イメージのせめぎあいの中で模索され、色彩は、現実のモチーフ固有のものから乖離して立ち現れている。
多様なものが混淆しながら、全体がつながって、生きているように、感覚に働きかける空間である。
下がきのスケッチはするそうだが、むしろ、描きながら変化していき、密生する色彩の中で、空間を区切った線さえも崩れ、イメージとともに溶け合っていく。
旅先で撮った写真、スケッチ、小説や歌詞の中の言葉、記憶や体験‥‥。さまざまなイメージと、幾何学的な線、区切られた空間が、描きながら崩れ、生成しながら溶解していくように、絵画空間が生まれていく。
森から、森のメタファーの絵画へと遷移した空間に密生する色彩。その流動する中にイメージが静かに息づいている。
生きている感覚を支えるなにげないイメージ、心象、感懐が、色彩の森の中にしのびこんでいる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)