Gallery HAM(名古屋) 2021年9月11日〜10月23日
作間敏宏
作間敏宏さんは1957年、宮城県生まれ。1982年、東京藝術大学大学院修士課程を修了した。2022年のギャラリーハムでの個展「治癒『HEALING』」のレビューはこちら。
筆者は、新聞記者をしていた1990年代、O美術館であった「光をつかむ-素材としての〈光〉の現れ」展や、板橋区立美術館での「<私>美術のすすめ」(ART IN TOKYO No.9)など、現代美術のテーマ展で、作間さんの作品を何度か見た記憶がある。
その後は、主に東京で作品で発表していたこともあって、見る機会がなかった。
2012年から、名古屋市立大学芸術工学部の教授を務めている縁もあって今回、名古屋での個展がようやく実現した。
作間さんは、1990年代以降、「治癒」「colony」「接着/交換」というシリーズを展開している。
1993年頃から制作された「治癒」では電球が使われ、主に98年頃から2003年ごろまで制作された「colony」 では人間がもつ固有の名前が作品の重要な要素になった。
その後、「接着/交換」のシリーズが続くが、それらは、厳密な枠組みというより、それぞれのシリーズで用いた手法が組み合わされているので、時系列の展開は、おおよその目安でしかない。
一貫しているのは、弱くはかない生命が生き延び、連綿とつながっていくこと、共生していることへの思いである。
作間さんはやがて、著名な発生生物学者の岡田節人さん(1927-2017年)の言葉から、生命が生き延びるのは、そこに接着と交換があるからだとの認識に至る。
生き物が生存するためには、互いにくっついていること(接着)と新陳代謝(交換)、すなわち、「接着/交換」が不可欠であるというのである。
接着はcolonyと結び付き、交換は治癒とも関連づけられる。
colonyには、植民地の意味もあるが、同じ種類の生き物が共生する集団や、培養された細胞の集まりなどを指す。つまり、弱い生き物が支え合いながら生き延びるための術である。
交換によって、生命は治癒され、生まれ変わる。
それゆえか、作間さんの作品は、それぞれの部分がつながりをもつように空間に群生し、colonyを想起させるとともに、近づいては遠ざかる、現れては消える、生まれては死にゆくような営みを感じさせる。
それは、生命のはかなさと同時に、レジリエンス(回復力)とつながりという希望も想起させる。
今回は、colonyのシリーズで、インスタレーション作品3点と小品が展示された。
2021年 colony Gallery HAM
「治癒」「 colony 」「接着/交換」は、細胞や生き物が生き延びるための工夫であり、それを人間社会に重ねたのが作間さんの作品テーマともいえるのではないか。
命のともしびというのか、1つ1つの電球は、生命のアナロジーであるように思われる。それぞれは、数個ずつ束ねられ、そのかたまりごとに1個ずつ表札が付いている。
このインスタレーションは美術館などに、これまでも何度か展示されているが、空間によって新たなかたちに更新されている。
表札に刻印されているのは、実際に存在する(した)名前である。
つまり、電球のかたまりは1つの家族、それらがおびただしく壁に掛けられたインスタレーション全体では、人間の社会という言い方もできるのではないか。
そのかたまりの中に、1つだけ電球がついていないものもある。死を意味するのかもしれない。ただ、かたまりの中の他の電球の明かりはついているので、命はつながっていく‥‥。
このインスタレーションは、家族、となり近所、地域社会、つまりコロニーである。そう考えると、所々に消えている電球は、例えば、災害などが起きたときの、ある1地域での亡くなった人をも想起させる。
電球の淡い光は抽象的だが、白色蛍光灯が強く冷たい工業的な光であるのに対し、温かく、どこか湿り気も感じさせる。
それこそが生命というものであろう。
表札の固有の名前には、その人が生きてきた来歴と生々しい感覚、重さが張り付いている。それは死の影でもあるが、見えない次なる生命の予兆でもある。
死は生の対極ではなく、生と死はひと続きである。固有の生とともに固有の死があり、そのつながり、集まり、分岐、交換に生命の豊かさがある。そんなことに思い至らせる作品である。
次の作品は、壁に設置された2つの円形状のインスタレーションである。
1つは、既製品のレースを刺繍枠にはめこんで円形に集積させ、もう1つは、女性の個人名をプリントした布製の小さな名札が多数掲げられ、全体で円形になっている。
名札の名前の一部は、消えかかっている。
レースは、作間さんが今回初めて使った素材である。女性性が感じられると同時に、その繊細で多様な模様、さまざまなサイズから、豊かさが感じられる。
家事労働的な手芸へのリスペクトとともに、集合になっていることで、コロニーのような共生も想起させる作品である。
そして、もう1つの円形を構成するおびただしい数の女性の名前の現れと消失。看取させるのは、電球と表札のインスタレーションとも共通する固有の生と死である。
2つの円形のインスタレーションが喚起するのは、過去から現在までの時間において、男性の陰に隠れて控えめに生きてきた女性の多様性、存在への讃歌。
女性一般でなく、固有の女性一人一人への敬意、その生と死、つながりである。
消えかかって、おぼろげになった女性の名前には、遠ざかる感覚がある。
つまり、距離が生まれ、溶解し、ピントが合わなくなって、《ここ》とは異なる次元へと向かう死の感覚である。
同時に、そうした膨大な固有名の中に見られる遠ざかる名前のイメージは、生と死、此岸と彼岸のみならず、記憶や時間、空間が決して唯一無二のものではなく、重層的で多様なものであるという感覚も伴う。
作間さんの作品は、単に生と死を暗示するだけでなく、この折り重なる多様なレイヤーの時間と空間に、それぞれの生命の尊厳、ある種のノスタルジーを喚起し、同時に、それぞれの人がそのつながりの中に存在すること、そして、鑑賞者の《今、ここ》の感覚を意識させる。
そうした感覚は、モニター画面による映像作品にも共通している。
映像は、降りしきる雨のイメージと、水底から名前が浮かび上がっては沈んでいくイメージが交互に現れるものである。
数々の名前が近づき、現れては、ぼやけて遠ざかっていく映像は、どこまでも続く奥行きと距離感、うつろう時間、空間の転位をイメージさせる。
現れては消える名前は1500人分。その膨大な固有名が雨のイメージと重なるのである。
現れては消える固有名に宿るのも、やはり生と死、多様な存在の記憶と時間、空間、そして《今、ここ》の感覚であろう。
刹那に浮かび上がって現れ、そして遠ざかり、希薄となって宇宙に溶け込んでいく—。
この幾重もの多様なレイヤーの時間と空間、名前の現れに、それぞれの生命の尊厳とノスタルジー、そして、その生命に代わるものが、この空間ではない別の時空に存在している感覚がある。
激しい雨は、おびただしい生命のはかなさと重なりながら、《今、ここ》の感覚を強めている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)