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斉と公平太 名古屋のSee Saw(シーソー)で10月23日まで

See Saw gallery+hibit(名古屋) 2021年9月11日〜10月23日

斉と公平太

 斉と公平太さんは1972年、愛知県生まれ。名古屋造形芸術大学卒業。

 主な展覧会は、「あいちトリエンナーレ2010」、個展「オオウチハジメ氏を探す旅展」(2014年、みやざきアートセンター)、個展「グスタフ・フェヒナーもしくはベンハムの独楽」(2018年、アートラボあいち)。

 1995年ごろに作品制作と発表を開始したというが、筆者が斉とさん(当時は斎藤公平さん)というアーティストの存在を知ったのは、その直後、1996年ごろである。

 当時は、筆者が中日新聞の記者として、美術などの取材を始めて間もないころ。東京・恵比寿のリノベーションした1軒家の2階にあった伝説的なギャラリー「P-House 」を訪れたとき、筆者が名古屋から来たということで、「名古屋出身の面白い現代美術家がいる」と斎藤さんの名前を知らされた。

斉と公平太

 細かい経緯は忘れてしまったが、筆者がコンテンポラリーダンスの「珍しいキノコ舞踊団」の取材をしたとき、インタビュー場所が確か、「P-House 」階下のカフェだった。

 「P-House 」は、プロデューサーの秋田敬明さんと、村上隆さんが始めたプロジェクトで、当時、東京のアートの最先端の場所の1つとして、周辺を含め新しい動きを起こしていた。

 当時、30代前半だった筆者も刺激を受けた。1997年、小谷元彦さんの個展「ファントム・リム」を見たのも「P-House 」である。

 話が逸れてしまったが、筆者が、斉とさんで思い出すのは、この記憶である。その後、斉とさんは、幅広い活動を展開。2012年、愛知県岡崎市の非公式キャラクター、オカザえもんを生み出したことは、ご存知の通りである。

断続・プロット・生活

斉と公平太

 今回の個展では、小品を中心に、非常に数多くの多様な作品が展示された。

 筆者は、斉とさんと会ったことがなく、今回もインタビューはできていない。記事掲載については、ギャラリーの許可を得ているが、深掘りする材料があるわけではない。

 そもそも、斉とさんの作品は、芸術とは何かという問いを見る者に起こさせるものでもある。

 創作の原点がデュシャンのレディメイド「泉」だと公言している。つまり、芸術の概念や制度自体を問うているわけで、今回の展示でもそうした意図は感じられる。

斉と公平太

 ただ、今や、誰であろうと美術家を名乗る人と、ギャラリーなり美術館なりのディレクター、キュレイターの共犯関係が成り立てば、「作品」として披露されるので、ある作品が芸術か、そうでないか自体には、あまり意味がない。

 意味を考えても「アートはアートだ」というトートロジーに吸収されるだけである。芸術か否かではなく、むしろ、問われているのは、質の高い芸術か否かであるからだ。

 では、質の高い芸術作品とは何なのか。その価値は何に由来するのか。これもまた実は答えの難しい問いである。新しさは尺度になりうるが、それだけなら、すぐに陳腐化する。

斉と公平太

 そんなことを考えながら、筆者自身がまんまと斉とさんの術中にハマっている気もする。 

 今回の個展で印象深いのは、立体作品やインスタレーション、小型のオブジェ、ドローイングに加え、斉とさん自身の子供時代の作品(ここまで残っていることに感動する)や、斉とさんの子供とみられる5歳児の絵や工作を出品していることである。

 作品の見た目としては、これらの分類の間に明確な質の差異があるわけではないのである。

 筆者は、作品と価格の関係に注目してみた。

斉と公平太

 すると、斉とさん自身が小学生の頃に制作した作品が最も高価で、10万円から300万円。斉とさんの5歳児の子供の作品は、3万円か5万円。

 それ以外の斉とさんのオブジェやドローイング作品は、1万円から10万円ということがわかった。

 自身の子供時代の作品、すなわち、遡って時間を取り戻すことができない遠い過去の記憶に高い価格を付けているところが興味深い。「愛」に価値を置くのと近いところがある。

 その他、クリケット選手で元プロ野球選手の木村昇吾さんのユニフォームクラウドファンディング返礼品などもある。いわゆる作品ではなく、個人的な趣味の「大切なもの」である。ここでも、価値が問われている。

 また、いかにも持ち帰るのが大変そうな作品の価格にあえて「送料購入者負担」と書いているのは笑わせる。

斉と公平太

 サイズ的にも見た目にも最も作品らしいたたずまいの「斜め折り平面と立体」は、グレーのミニマルな平面作品を対角線で折って床に置けば立体になるという作品である。

 それが個展のDMと同じデザインの相似形になっている。

 筆者が面白い作品と思ったのが、「捨てられない瓶の活用法。モランディとルビンの壺」と、「捨てられないトックリの活用法。モランディとルビンの壺」の2点。

斉と公平太

 ごみ同然の瓶とトックリを台に置き、その側面のラインに添うように、粘土で作った逆さまの瓶またはトックリをぴったり並べたオブジェである。

 静謐な中にボリュームや密度を感じさせるモランディの静物画を立体で模倣しつつ、認知科学、精神物理学に興味がありそうな斉とさんらしく、「ルビンの壺」の雰囲気を漂わせているところに、ユーモアが効いている。

 ほかに、葛飾北斎の富嶽三十六景や、モナリザのポスターを筒状にして壁に掛けた作品では、あえて継ぎ目を正面にしていた。

 イメージを見えなくさせ(断絶)、その端と端を接続することで、終わりのないシークエンスにしている。

 ごみ箱を2つ並べ、それを上から見た形をトレースしたドローイングと合わせて展示した作品がある。ドローイングが、無限を表す記号「∞」になっているのが面白い。

斉と公平太

 「割れたレンゲを休ませる」などというタイトルで、破損したレンゲやスプーン、マグカップなどの台所用品を粘土の台の上に置いて支えたり、把手(取っ手)の穴を粘土で補強したりした小品がいくつか並んでいた。

 斉とさんの作品には、補修する、空間の欠落を埋める、別のものをもってきて継ぎ足す発想のものがある。

 それは、ほかの作品に見られるトレースする(なぞる)行為にも通じる。

 へんな作品ばかりである。だが、へんだからこそ、私たちにへの問いかけを含んでいる。

 加えて、筆者が斉とさんの作品に感じるのは、優しさとユーモアである。筆者は、フォローしているオカザえもんのツイッターの「今日も1日をのりきるでござる」「家事、育児、寝かせつけ!お疲れ様でござる。残業の方、夜勤の方、無理のないように」などの言葉の優しさから元気をもらってきた。

 斉とさんの作品の背景には生活があり、その断片が切れたりつながったり、なぞられたりしながら、なんらかのプロットを生みだしている。

 それは日々の暮らしだろうか、愛だろうか、人々とのつながりだろうか、人生だろうか‥‥。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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