ギャラリーヴァルール(名古屋) 2022年5月10日〜6月4日
神農理恵
神農理恵さんは1994年、三重県生まれ。2018年、名古屋造形大学造形学部コンテンポラリーアートコース卒業、2020年、武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻彫刻コース修了。
埼玉県を拠点に制作している。2019年、See Saw gallery+hibit(名古屋)でのグループ展「ゆくりか」に参加した。
鉄、コンクリートブロック、木材などの素材を中心に、ときにガムテープ、ワックスなど意外な素材を組み合わせ、着色した立体をつくっている。
山口由葉
山口由葉さんは1992年、愛知県生まれ。2016年、名古屋造形大学造形学部洋画コースを卒業。2018年に同大学院造形研究科修士課程造形専攻を修了後、2020年に東京藝術大学大学院美術研究科修士課程絵画専攻油画を修了した。
風景をモチーフに、見ること、描くこと、記憶、想起することなど、連続する刹那に生きることが結びあうような、多様なストローク、色彩の群が浮かび上がる絵画空間をつくっている。
Valeur 2022年
今回は、画廊からの提案で、神農さんと山口さんの2人展として企画され、2人は、Valeurをテーマに据えた。
神農さんの作品は、鉄を紙細工のように無造作に溶断して立ち上げた立体、あるいは、切断したコンクリートブロックにワックスやガムテープ、リボンを付着した立体が中心。
いずれも、さまざまな色彩に着色されているのが特徴。画材は、油絵具、クレヨン、カラースプレー、油性塗料を使っている。
玩具箱をひっくり返して、そこにあるものでいろいろ遊んでみる。あらかじめあるイメージ、完成という目的概念に向かうというより、即興性、偶然性を感じさせる作品である。
設計図にしたがうのではなく、材料を寄せ集め、ずらしながら、思いのまま自由にくっつけていく感じは、ブリコラージュという言葉を想起させる。
ベースとなる鉄やコンクリートブロックを加工し、着色し、異質な素材を加えるなど、連続する試行が中断したところで「作品」が生成している雰囲気を出している。
最初から「完成」を目指して制作するわけではなく、文脈から切り離された素材の利用に近いので、技術的な完成度はもともと求めていない。
素材の加工、組み合わせ、着色は実に自由である。素材本来の重さと性質の感覚を攪乱し、軽やかに制作しているところがある。
つまり、鉄を使った作品は紙細工のようにも見え、ブロックの作品も重々しさからは解き放たれている。
その意味で、筆者は、青木野枝さんの作品を想起したが、青木さんの作品が単色で、空間的、構築的、全体的、均質的なのに対して、神農さんの作品は、色彩豊かで、視覚的、即興的、部分的、粗野で、いびつである。
自分の感覚をたよりに、ある種、無計画に、ユニークな⽴体作品に着地させているところが何より興味深い。
そこには、なお構成的部分と、複数の素材の質感的な出合い、文脈のずらし、色彩のバリエーションがあるが、おおらかである。
素材を遊ばせるように自由に加工し、コンクリートブロックや鉄が、そのものらしさを残しつつも、色彩をまとって、別の存在感に変容している。
作家が遊んでいるつもりが、素材に遊んでもらっている。そんな向こう側からこっそりやってくるような素材の内在的な現れが、作品の面白さにつながっている。
それだけ、「私が」という自意識と素材の素材らしさの度合いを減らし、判断することも分かったつもりになることも避け、自由なのである。
一方、山口さんは、バスの車窓から流れていく風景をドローイングし、それがアトリエで絵画を描くときのきっかけとなるようである。
バスからの風景は一瞬のうちに過ぎていくから、推測するに、そのドローイングそのものが視覚から瞬時に脳へと送られた不確かなイメージでしかない。
それがベースとなる絵画は、入り口からして、おぼろげなものである。つまり、既に山口さんが絵画空間をつくるときのイメージは、後退する世界でしかいない。
だが、後退するイメージをきっかけに訪れる絵画空間との対話の時間がまた、山口さんにとっては、かけがえのないものである。
山口さんは、中学生の頃、いじめられ、不登校だった。自分が存在しているのか分からなかった。あるとき、珍しく学校に行ったときの帰り道、歩いている自分のつま先に小石が当たり、コロコロと転がった。そのとき、ハッとして、自分の存在を知らされ、安堵した——。
筆者は、作家のポートフォリオにあった山口さんのこのエピソードを読んで、「自分がここにいる感覚」をこのように書ける山口さんに親近感をもった。
それは、山口さんが、生きている小さな喜びを感じた瞬間だった。自分という存在にすでに世界の中のポジションがあること、その共生感覚の中で、自分が自分をいとおしく感じた瞬間だった。
小石が足にぶつかったとき、靴を通じて、つま先に伝わってきた微かな振動と、小石が《私》にぶつかって、コロコロ転がる動きが、そう思わせたのである。
山口さんがこの世界とつながり、場をもつように、今度は、《私》から紡がれた絵画が、そこに在り、自分や世界とつながっていく。
彼女は、それを希求している。つまり、筆者が何を言いたいかというと、山口さんの絵画は、世界とつながれた自分の存在の刹那の流れと重なるものだということである。
例えば、バスの車窓から世界を見ること、それをドローイングに描くこと、そのささやかなイメージ、矩形の支持体に向き合うこと、心に想起された出来事、描く行為と時間がつながっていく、その決して緊密ではないにしても、確かにつながっている緩やかな生の刹那の流れとして、絵画が生まれてくる。
主体としての山口さんが、この世界にあとから入っていって、世界を対象化するというより、むしろ、この世界に溶け込んだ作家が流れるように生き、その刹那、刹那の《私》がここにいる感覚のいとおしさを重ねるように描いている。
つまり、世界をある時点において捉える絵画ではなく、自分と世界の流れる時間が積層していくような絵画である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)