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ラルフ・フリッツ・ベアガー展 名古屋のSA・KURAで2023年7月1-23日 L galleryで7月8-23日

愛知県立芸術大学サテライトギャラリー SA・KURA(名古屋) 2023年7月1~23日
L gallery(名古屋) 2023年7月8〜23日

ラルフ・フリッツ・ベアガー

 ラルフ・フリッツ・ベアガーさんは1961年、ドイツのデュッセルドルフ生まれ。デュッセルドルフ芸術アカデミーで、ドクメンタ5、6などに出品しているクラウス・リンケに師事したアーティストである。

 同アカデミーに留学した彫刻家の竹内孝和さん(愛知県立芸術大准教授)と同じ頃に学んだ。今回は、その縁で日本での初個展が実現した。

 ベアガーさんは、パフォーマンスのアーティストともいえるのだが、彫刻家を名乗っている。身体的行為によって空間にアクセスし、その動きや、コンセプチュアルな性質が、彼の使う素材、メディアとともに作品になっていく。

 今回は、名古屋の個展会場2カ所の双方で、初日にパフォーマンスを披露した。

 筆者は、 L galleryでのみ見ることができたが、基本的には同じパフォーマンスのバリエーションだったようである。 SA・KURA では、パフォーマンスの映像を見ることができる。


 両会場で展示されたのは、パフォーマンスやその痕跡を映像や写真、インスタレーションなどで残したものが主で、 L galleryには、ほかに彫刻やドローイング類もあった。 

 パフォーマンスを映像や写真などの非物質的なメディア、あるいは、物質的なメディア、場合によっては、素材と組み合わせ、「彫刻」として展開している。

 融通無碍なアーティストだが、身体を起点に作品をつくっていることは間違いない。パフォーマンスそのものを、身体による行為の運動性と空間性、思考や概念の転換をうみだす彫刻作品として捉えているである。

 ヨーゼフ・ボイスが提唱した「拡張された芸術概念」「社会彫刻」に倣えば、パフォーマンス、あるいはそれを記録した映像、写真、痕跡によって、これまでとは違う人間存在のあり方、世界との関係性などを「彫刻」として表象しようということかもしれない。

SA・KURA 名古屋方面は7路線

ラルフ・フリッツ・ベアガー

  SA・KURAでは初日にパフォーマンスを披露。床に敷いた黒い布の下に潜り込み、自分の来ている衣服、靴下、靴などを順に脱ぎ、すべて裏表を逆にして再度着るという一連の動きを、体に付けたカメラで撮影し、ライブ投影した。

 会場には、このパフォーマンスの映像「革命的制度」が投影されている。「革命的制度」という、機知に富んだタイトルがこの作品を如実に物語っている。

 「革命」とは、根本的変革(逆転)、つまり、ドラスティックな変化のことであり、「制度」とは、逆に、持続的な仕組みや決まり、つまり、安定していることである。

 要するに、「革命」と「制度」は本来、相いれない言葉であって、安定した制度が少しずつ変わっていくことはあっても、それを丸ごと逆転させたら「革命」である。

  ベアガーさん は、衣類を完全にひっくり返す「革命的」パフォーマンスをしたわけだが、そうだからと言って、それが固定化したら終わりである。

 彼にとって、作品とは、エラーを修正し続けるものである。「革命的制度」が揺るぎない権威となれば、それは「死」となる。そんなことを暗示したパフォーマンスである。

ラルフ・フリッツ・ベアガー

 着ていた衣類、靴をすべて完全に裏返して着るという、シンプルなパフォーマンスが、実は「革命」のメタファーなのである。「革命」は、それを礼賛して、新たな「制度」「権力」にしてしまえば、容易に人間の自由を奪うものとなる。

 それゆえ、このパフォーマンスは、「革命的制度」をアイロニーとして捉え返し、常に変わっていくこと、エラーを修正すること、自由に生きることを謳ったものだとも言える。

 観客の前でありながら、パフォーマンスは布の向こうで行われるので、実際には見ることができない。観客が、もぞもぞと動いている布の膨らみを感じる向こうで、何が起こっているかは、ベアガーさんの体に装着したカメラによって撮られた映像から察するしかない。

 つまり、布の向こうのパフォーマンスは、実体としてもライブ映像にしても混沌としている。この混沌とした感覚が、実体と映像では全く異なるのも面白いところだ。

ラルフ・フリッツ・ベアガー

 作家が、1961-1972年のNASAによるアポロ計画で、アポロ宇宙船による月面着陸の映像を見たとき、自分が肉眼で見ている月と、テレビ映像の月に降り立つ人間の足との間に奇妙な違和感、不思議な感覚を感じたという体験も、この作品のヒントになる。

 つまり、このパフォーマンスでは、衣類を完全に裏返しに着るという、ささやかな、しかし革命的な行為が、観客の肉眼とカメラの視点の間で攪乱される。

 ほかに、「×」記号の旗を持って名古屋の街を歩くパフォーマンス映像や、大量の風船を膨らませたパフォーマンスの痕跡としてのインスタレーション、うずたかく積まれたA4用紙を一枚ずつクシャクシャにして、肩越しに後方に投げ、その紙の山の中に自分自身が埋もれるまでを記録したパフォーマンス写真があった。

L gallery あなたに残ったのは私の記憶だけ

ラルフ・フリッツ・ベアガー

  一方、L galleryには、映像、写真、彫刻、ドローイングなど、多様な作品が展示された。

 初日には、作家がSA・KURAでのパフォーマンス「革命的制度」を、立った姿勢で行うパフォーマンスを披露した。 ベアガーさんが壁に吊した幕の裏側で観客からは見えないようにパフォーマンスをし、着ている衣類の表裏を反転させるライブ映像が、 ベアガーさんの体を覆う布に投影された。

 そのほか、興味深い作品の1つに、ラバーの長靴をはいた作家が、空間のへりを歩くパフォーマンスの映像作品「Rubber Edges」があった。

 これもシンプルながら、ユニークな発想の作品である。360度カメラを体に付けて足元を撮影していると思われるのだが、激しく歪んだ映像の中央部で床の部分が球体になり、作家が玉乗りをしているように見えるのである。

ラルフ・フリッツ・ベアガー

 ラバーの長靴は、彫刻や写真の作品にも使われている。彫刻作品では、黒いラバーの頭像に長靴が癒着した、とてもおかしな作品である。

 靴底が厚く、足裏に地面を感じにくいラバー製の長靴は、分離、遮断、絶縁の象徴であろう。他方、目、耳、鼻、口(舌)など感覚器が集中している顔が、この作品では、やはりラバーで覆われ、感覚を遮断されている。

 頭と足が癒着することで、通常の身体性が失われ(これも革命的な逆転である)、ラバーによって感覚が遮断されているのが、この彫刻の意味するところではないか。撹乱され、身体の「制度」が革命的な転倒をしているのだ。

ラルフ・フリッツ・ベアガー

 中国で発表した写真7点による「ICH」は、「私」を意味する中国語の「我」がドイツ語で同じ意味の「ICH」へと変わっていく赤い文字(血を想起させる)に、銃を持つイメージを重ねている。

 ベアガーさんが L gallery の案内リーフレットに書いた文章を読むと、この作家が確固たる真理を求めて、思考を固定化するのではなく、むしろ、エラーの修正を続け、動き続けることで自由に制作していることが分かる。

 原点にあるのは、自分にとって不可思議な身体性と感覚、知覚であり、身体と空間や時間、自分自身の生の流れを反映させながら、問い掛けのような作品を生み出している。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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