久門剛史「らせんの練習」 撮影:来田猛
2019年10月5〜27日、京都市内で開催された「KYOTO EXPERIMENT2019」のプログラムとして、10月20日にロームシアター京都サウスホールで公演があった久門剛史さんの作品「らせんの練習」を見た。
久門さんは、「あいちトリエンナーレ2016」に出品。「KYOTO EXPERIMENT」では、2016年4月にあったチェルフィッチュ の舞台「部屋に流れる時間の旅」を岡田利規さんと共同制作し、舞台美術と音響を担当した。また、2020年3月20日〜6月21日には、愛知・豊田市美術館で、国内初の大規模な個展がある。
同美術館のwebによると 、同展では、美術館の展示空間に呼応する新作インスタレーションを展開。併せて、近年の取り組みも紹介される。
久門さんは、日常に潜む要素や場のもつ記憶、歴史を採取し、音や光、立体などを用いて、美しく演劇的な空間を創出。単線的な物語に回収されない、ポリフォニックな時間と空間を紡ぎながら、それぞれの現象や要素が想起させる知覚と認識、記憶によって、世界のあり方と物事のかけがえのない唯一性、永遠性、自己存在を問いかける。「らせんの練習」は、そんな久門さんの初の劇場作品である。
久門剛史「らせんの練習」 撮影:来田猛
今回の久門さんの作品では、観客は照明機材などが並んだ舞台裏を通って、舞台に上がる。つまり観客は舞台に座布団を敷いて座り、サウスホールの無人の1、2階の客席で起こるパフォーマンスを鑑賞する。空間に入ると、舞台上(つまり今回は客席になっている場所)の客席側(つまり今回のパフォーマンスが行われる場所)に近いところに、高さ1.5メートルほどの高さの4本足の台座が置かれ、その上で淡い黄色い光が静かに点滅を繰り返している。
パフォーマンスが始まると、さまざまな鳥の鳴き声が聞こえ、プーッ、プーッ、プーッと、電子音が続く。馬の走るような、あるいは風のような音も聞こえる。やがて、客席の座席の下からドライアイスの白煙が立ち込めてくる。鳥の鳴き声や電子音は続いている。時折、舞台上手から暗闇の中を光が走る。薄暗い客席には、赤い小さな微光が散りばめられ、机とテーブルランプが2つほど見える。
客席では、白い光が左から右へと2カ所で連続してシューッ、シューッという響きとともに走るように点滅し続ける。水を注ぐ音や金属音、何かが軋む音。駅のアナウンスの声、電車の音、踏切の遮断機の音も聞こえる。そして、続く電子音。時報の音。と、客席の光が消え、闇の中で黄色い明かりがついたテーブルランプが1つ天井からゆっくり下りて、次第に明るくなる。時報の音。そして、全てが消えて暗闇。風の音。
今度は、薄暗い舞台にドライアイスの白煙が広がり、観客の体を包むように侵食してくる。複数のスポットライトの強烈な白い光が上手から観客に向けて照射される。暗闇。波の音。水の流れる音。暗黒の中、巨大な波のような物凄い轟音。そして、客席の天井から下りてくる、輪の中に吊るされた2個の黄色い電球の明かり。ビリッビリッビリッという電気音。客席では、5つの白いカーテンが下から上がってきて、風に揺れる。「台風の影響で運休が出ております」と駅のアナウンス。カーテンには、ミシェル・ヴェルジュの作品のような、大型のスポットライトの白い光がリズミカルにカーテンに投影される。水の音。天井から、おびただしい紙が落とされる。
久門剛史「らせんの練習」 撮影:来田猛
おおよそ、こんな感じで、約50分間、闇と光、音、風や白煙、オブジェの動きなどによるパフォーマンスが劇場の無人の客席を使った天井高のある大空間で詩的に展開する。数少ない鑑賞経験では、テイストは異なるものの、俳優がいない演劇的な空間、とりわけ光の要素という点では、2017年にKAAT神奈川芸術劇場で見たアピチャッポン・ウィーラセタクンの「フィーバールーム」を思い出した。ちなみに、2018年に森美術館で「MAMプロジェクト025:アピチャッポン・ウィーラセタクン+久門剛史」が開かれ、2019年のベネチア・ビエンナーレの「May You Live in Interesting Times 」展でもアピチャッポン・ウィーラセタクンとの共作が展示されたという。
また、客席の吹き抜けの大空間を使うという意味では、SPAC(静岡県舞台芸術センター)が2014年、「マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜」を、フランス・アヴィニョンからの凱旋公演としてKAAT神奈川芸術劇場の客席空間に壮大な円形舞台を設置し、通常の舞台側から客席側を見るようにして上演したときのことを思い出した。いずれにしても、今回、久門さんの作品が展開したのは、「部屋に流れる時間の旅」で舞台美術と音響を担当したノースホールとは全く異なる大空間である。
久門さんは、アイスランドやインドネシア、タイ、そして日常を過ごす京都でフィールドレコーディングした多様な音源によるサウンドスケープと、劇場の客席空間、カーテン、テーブルスタンドなどのオブジェクト、さまざまな光と影の空間を重ねながら、それぞれの要素が交感するような劇的な空間を生み出した。異なる時空のサウンドスケープが目の前で広がる光と物体、空間のドラマツルギーとの相互作用によって、新たなイメージを観客の網膜に焼き付け、展開する音と光、運動と静寂が記憶に触れ合わせる。
久門剛史「らせんの練習」 撮影:来田猛
「KYOTO EXPERIMENT2019」がwebに掲載した高嶋慈さん(美術・舞台芸術批評)によるインタビューが、久門さんの狙いをよく伝えている。それによると、音や光など実体のないものと立体、物体を共存させる試みは、2013年の東京・資生堂ギャラリーでの個展が最初。そこから、身体性を排除しながら光と音、物体などが演劇性を招来させる空間への進化が始まった。観客が鑑賞する時間の流れはあるものの、展開する時間は多層的で、コンピューターで制御されながらも、自然現象や自分を取り巻く外界あるいは内面と同様、予測不能性と揺らぎを内在させている。
「らせんの練習」というタイトルは、そうした時間の流れの中で、真上から見ると円である螺旋も、視点を変えて見た螺旋構造は彫刻的であるというように、作品の中の現象は、見る人の中でさまざまな時間と空間につながっていく。
久門さんは彫刻科出身で、時間の経過や重力、運動、宇宙の秩序と天体の運行などを知覚する作品を手がけてきた野村仁さん(2001年に豊田市美術館で「移行/反復」展を開催。同美術館は野村さんのコレクションを多数持つ)の薫陶を受けているというのも頷ける気がする。
研ぎ澄まされた幻影のような空間に、ポリフォニックに響く音と、さまざまにおりなす光、物体の運動と揺らぎは、時に静謐に時に激しく、見る者に働きかける。大きな波の轟音と、コップに水を注ぐ音、圧倒的な閃光と日常的なランプの明かり。驚異的な大自然と都市の雑踏、目の前の小さな日常。
さまざまな音と光、運動と空間のレイヤーが、離れた世界が別の空間の隙間に入り込むように、ある瞬間が別の時間に介入するように多層的に挿入される。個のささやかな日常空間、繊細な世界の美しさに、不穏な事件、世界のざわめき、崩壊の予兆が隣り合わせで潜んでいるように。社会システムの秩序、崇高な自然界の摂理に、それを壊す強大な力が、時間と空間のずれを伴って訪れるように。世界を見る新たな知覚空間の遠近法を感じさせる作品だった。