この記事は、 芸術批評誌「REAR」 (2007年9月、 no.17) に掲載した原稿が基になっている。三重県在住の画家、鷲見麿さんが2020年8月21〜30日、11年ぶりの個展を京都で開いたということで、手を入れて掲載した。
また、その後、2021年にも、京都の個展のメインの作品が名古屋市美術館で展示された。《鷲見麿「新・聖なるファティア『神秘の子羊の礼拝』」名古屋市美術館で11月14日まで特別出品)》を参照。
画家・鷲見麿さんについて
鷲見麿さんは、名古屋が生んだ(出身地は、岐阜県の旧洞戸村、三重県四日市市在住)奇才画家の筆頭に数えられる存在だろう。21歳だった1975年頃に描いたシュルレアリスム風の連作「創世記」や、その後の「典子に捧げるシリーズ」など、当初から、その異彩さは群を抜いていた。
鷲見麿さんの作品の特徴は、偏愛する美女(「典子」「マリアン」「青紀」「ファティア」)を撮影した写真や、画集の絵画複製(アルトドルファー「アレクサンドロス大王の戦い」やヤン・ファン・アイク「ファン・デル・パーレの聖母」)を完璧に写す超絶技法、あるいは、クリムトなどの西洋絵画の解体や捏造などである。いわば、そこには、実物から写真へ、写真から絵画へという、二重の「写し」がある。
模写ではなく、写し。模写が実物を真似して、それに近づけるようにコピーすることだとすれば、鷲見さんは、真似ることなく、グリッド状にイメージを分解して、ただ、写す。そこには、線と形、造形、色彩という感覚を超えた意識があるのかもしれない。
この「写し」を支えるのが、「世界は模様である」という、鷲見さんが唱える命題である。確かに、あらゆる事物のイメージ化、ネット時代における世界の映像データ化など、前世紀末以降に進んだ世界の平面化は、鷲見さんの命題に根拠を与えてもいる。世界を模様だとするこうした非実体的ともいえる渇いた認識論と、そうした対象への執拗なまでの生々しいこだわり。この逆説に、鷲見麿さんの作品を解く鍵があるような気がしてならない。
世界を模様とする鷲見さんの世界観には、膨大な写真群「アトラス」をイメージの源泉とするゲルハルト・リヒターの「シャイン」(実体のないイメージ、光)の考えと一脈通じるものがある。もっとも、鷲見麿さんの色彩分割や単色パネルの提示、ヤン・ファン・アイクの作品などに見られる、描く行為の遂行途中とも見える色彩の塗り残し部分が、リヒターの色チャートのような絵画「18色」や、アブストラクト・ペインティングと共振するといっても、リヒターの作品は明らかにクールであり、鷲さんの作品はもっとホットである。
まず、鷲見さんの絵画は、イメージそのものを分析することに主眼はない。鷲見さんが、ある時間体験における対象の純粋な物質的痕跡である写真を写す行為、世界を、この世の美しさを模様として写すことを自らに課してきたのは、なぜなのだろうか。
一つには、三次元空間の多様性をいったん同質化して、混じりけのない純粋な絵画空間をつくるため。次に、それによって、実物の対象に沿って分析的に描くより、(逆説的だが)はるかに自然に即してリアルに描けること、すなわち、「見る」ことと、「描く」ことの時間差を最小限にとどめようとしたこと。
さらには、モダニズム絵画が追求した平面性を超える絵画として、「世界(空間)=模様(平面)」の物質的痕跡である写真平面をそっくり写す行為によって、世界(イリュージョン)と模様、空間と平面、具象と抽象を同時実現するという詭弁論理に近いたくらみもここにはある。
鷲見さんが世界を写すときに、元になる写真をグリッドに分解し、その一つ一つを写しとることで全体を作り上げるという方法を採ることに注目したい。鷲見さんの作品は到底ただのコピーではなく、むしろ積極的な意味で、微細な色点の膨大な組み合わせ、儚い色班の集積である。
鷲見麿さんは、写真(模様)を有限なグリッドごとに連ねることで、いかに全一性に到達できるかを考えているようにも思える。絵画において今、何をなし得るのかという問いに対し、現実の空間と切り結ぶのではなく、グリッドに分解した画像を写すことで完璧な世界を作ることが、絵描きとして鷲見麿さんができる挑戦だった。
それは、コンピューター画像で、色情報の最小単位である画素(ピクセル)を埋めていくような作業である。こういって良ければ、鷲見さんの絵画は、人間コンピューターのなせる技である。どれほど超絶技法で本物そっくりに「模写」したように見せても、それは、模写ではなく、コンピューターよろしく、ピクセルの集積によって画像を写したものにすぎない。
鷲見さんの作品自体が、色彩の塗り残しや、色チャートのような部分、途中から別の絵に切り替わる境界を持っていて、作品が模様の写しであることをあえて強調していることに注意してほしい。
モダニズムが、対象を自分の精神の中で再構成する絵画を推し進めたのに対し、世界(の画像)を模様として、ありのままにコンピューター的に写し、それによって、新たな自律的な世界を実現すること。鷲見さんは、有限のグリッドを色点で埋めていく行為によって、どんなに美しいもの、かけがえのないものであっても、自分のものにできた。たとえ最高の「美女」や「名画」であっても。
グリッドを凝視するミクロ的な視線のつながりが、そんな壮大な妄想にたどり着くのである。そこには、世界を模様として等価に見る冷めた眼差し、それを自分のものにするという熱い欲望と遊び心、たくらみがあった。
鷲見麿さんの公と私
鷲見さんによる「写す」行為には、対象への客観的な眼差しさと個人的な愛着、世界(模様)に対する透徹した意識と熱い思いが共存している。
それは、客観と主観の問題、ある生きた人間が世界とどう向き合うかというテーマと言い換えてもいいかもしれない。そして、アートが、その人の主観的な表現が、他の人にも共感を呼び起こすという意味での公的な(客観性のある)価値に反転すること、優れた「私の表現」が公の価値になるということだとすれば、鷲見さんは、世界という模様を「写す」という厳格性、客観性の裏側で、大いに自由を楽しみ、生々しく、私的な表現を突出させ、その逆説の意味を問うた。
事実、鷲見麿さんは、その自由を謳歌し、西洋絵画の伝統に倣い、自画像を画面に描き入れるは、偏愛する「美女」やクライアントの顔を画面に描き入れるは(その最たる事例として、アルトドルファー「アレクサンドロス大王の戦い」で、夥しい兵士の顔をクライアントの顔にすげ替えた)、やりたい放題。さまざまなパロディによる捏造、色彩分解による絵画そのものの腑分けと解体、うんこなどの下半身ネタなど、奔放な悪戯の限りを尽くした。
世界を模様として写しつつ、そこに最大限に自分を押し出し、偏愛対象として執拗に絡みつくことで、公的な芸術の価値として提供した。そこにこそ、芸術としての高みがあるとして、挑んできた。鷲見さんの「世界模様論」が、どんなものでも模様として描ける、支配できる、自分のものにできるというのは、世界を写し、自分のものにして偏愛するということだった。
「芸術」として、私的な自由の限りを尽くすことで、アートとしての社会的価値、公共的な価値を目指したのだが、子供ができ、主夫として育児に関わる中で、「非芸術」的な日常の私的な出来事、人間の生き方自体にアートとしての社会的価値、公共的価値を見いだすようになった。
すなわち、芸術上の私的表現から公的な価値(それは鷲見さんにとって、金銭的価値ではなく、見えない力である)を見いだすと思っていたのに、私的な日常の価値に、アートに勝るとも劣らない公的な価値があることが分かったということである。
アートと何か。それを鷲見さんは、美術の制度に安住することなく、問いかけてきた。
現実の生活の中で、鷲見麿さんは長年、自分の二人の子の育児や家事はもちろん、保育運動、障害児のための絵画教室、PTA、高齢者福祉、教育など、多様な社会活動を展開させてきた。そうした活動の帰結として、2001年、不登校、引きこもり、障害などの若者たちが集まる場として、三重県四日市市で始めたのが「めだかの学校」である。
アートとして私的な自分を表現することよりも、私的な日常自体にアートがある。私的日常をアートとして型に当てはめる以前の、むきだしの日常に、非アートとしてのアートがある。
これは、アート関係者にとっては、「日常をテーマにしたアートですね」と括られてしまいそうだが、違うと思う。鷲見麿さんは、日常にあるアート性を「アート」に押し込めることができないからこそ、矛盾を感じたのである。
これに、私は共感できる。
鷲見さんの中で、そうした非アートとしての日常への飢餓感が強くなり、絵画制作という、芸術制度上の社会的価値だけでは済まなくなってくる。
身の回りの世界に愛を傾ける鷲見麿さんは、絵画上で〈私〉的な冒険をすることで〈公〉の価値を目指すだけでなく、自らの足場のある日常で〈公〉的な冒険をせざるを得なくなった。
それでも、あるときまでは、その日常の活動は絵画上の活動と微妙な均衡の上に成り立っていたのだが、やがて、それでは済まなくなる。
2003年、「日常に遍在するアート」という展覧会が名古屋で開かれ、「めだかの学校」やそこの若者たちの作品が紹介された。この日常とは、鷲見さんにとっては、アート業界に生きる人たちがモチーフにする「日常」という材料ではなく、アート業界から外の世界で、真摯に生きるマイノリティーや弱者などにとって、意味のある生き方、アートであった。
鷲見さんは、普遍的に日常に「アート」が存在するなどと言っているのではなく、美術という囲われた世界だけで都合良く完結したものより、もう少し広い社会意識の中で、ある表現や営為が人間存在とかかわるときの重要な部分として「アート」とは何かという問いがあり得る、と言っているのである。
こうした鷲見さんの考え方に従えば、「アート」は単なる商品ではありえない。鷲見さんは2006年11月、村上隆の著書「芸術起業論」の出版に怒り、この本に死刑を宣告。「めだかの学校」で、皆の見守る中、この本をのこぎりで切る死刑執行を敢行した。自ら「小日本国右左翼党」を名乗り、この切断した「芸術起業論」を発行元の幻冬舎に送りつけた鷲見麿さんは、さながら、テロリストのようであった。
それは、2007年の白土舎での新作個展で、より先鋭的に表れた。鷲見さんは、「めだかの学校」スタッフの「リツコ」の絵画と、鷲見麿さん制作のファティアのレリーフをペアにして、鷲見さんの作品として発表した。
鷲見さんは、ここで、むき出しの生を生きる「リツコ」の絵を作品に導入することで、表現手段を持たない多様な個性の潜在力を、既存の制度を解除する一つの契機と捉えた。
「リツコ」は、現代の不安定な「生」の一つの象徴的な存在であった。これまで世界を模様として描いてきた鷲見さんは、現実の立体的な現実社会を初めて直接的なかたちで注入し、それを構造的に可視化しようとたくらんだのだ。
だが、それは、今思えば、危険な賭けであった。
日常の中での社会的価値が肥大し、鷲見麿さんは、発表していた画廊・白土舎から離れ、白土舎は2010年11月に、閉廊する。
〈私〉の表現が「公」になりにくい日本だからこそ、そして芸術が商品化しているからこそ、鷲見麿さんは、絵画を信じ、外に開こうとした。
世界を「模様」と考えたとき、それに最もふさわしい高みが「名画」や「美女」なのであって、鷲見さんはむしろ、逆説的に、この高みに向け〈私〉を突出させ、その芸術的な意味を社会に問いかける一方で、日常では、社会的な立場から、〈公〉の立ち位置から、弱い存在に温かい視線を注ぎ続けた。
社会を意識するがゆえに、絵画の世界で〈私〉を突出させ、そうすることで彼にとっての〈私〉を〈公〉にブリッジさせようとした。だが、美術業界の表舞台から消えたことで、いったん、それは潰えた。むしろ、日常では〈私〉がそのまま〈公〉の問題であった。
鷲見さんは、そこに価値を見いだした。
11年ぶりの個展で、彼は何を問いかけるのか。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)