gallery N(名古屋) 2024年1月20日〜2月4日
折原智江
折原智江さんは1991年、埼玉県生まれ。2015年、多摩美術大学工芸学科陶専攻卒業。2017年、東京藝術大学大学院美術研究科先端表現科修了。2015年、第19回岡本太郎現代芸術賞展敏子賞/第19回岡本太郎現代芸術賞展。
2019年の個展「息を止める事をやめる」のレビュー、2021年の現代美術展「境界のかたち 現代美術 in 大府」レビューも参照。
折原智江さんは、自分の個人的な生い立ちや実家、家族などの背景、体の生理現象や呼吸などの生きている感覚を大切にする作家である。
家業が煎餅屋を営むゆえに、煎餅で墓石を作ったのは、その顕著な一例。身近な人の生死に関わる事態に直面して、線香と炭、灰を素材にすることや、涙や呼吸に注目することもある。多くは、生と死をめぐる主題に関わっている。
生活のリハビリ
今回の個展には、「生活のリハビリ」という、一風変わったタイトルが付いている。生きることがが辛くなったときに、誰もいない鄙びた場所に行き、深く呼吸をすることで、生きていることの実感を取り戻す。
それは、都会の喧騒の中では感じ取れない自分という存在を確認する体験によって、再生するような感覚なのかもしれない。
そんな姿勢で制作された今回の作品の多くは、素朴なものが多い。草や小枝などの植物を束ね、あるいは編んで作ったオブジェがある。そのさまざまなバリエーションを平面に貼り付けた作品は「その風景に用がある」というタイトルが付けられている。
この「その風景に用がある」は、2022年に北海道旭川市でアーティスト・イン・レジデンスをしたときの成果を発表した「ギャラリーかわばた」での個展のタイトルでもある。
折原さんはこのレジデンスで、旭川の森林、野山で集めた植物を素材にしたオブジェを発表しているが、今回の個展はその延長にあると言えるのかもしれない。
折原さんは、大学で陶を専攻している。「用がある」つまり民藝や工芸で言われる「用の美」というときの実用性が器などの機能を指す中で、折原さんはあえて、植物がかたちづくる「風景」に心に働きかける用途があると言いたいのだろう。
自然素材を使った手仕事に原点を置くような発想が強く感じられる。先住民族が作るような物と手仕事、工芸や民藝とのつながりを持ちながら、今回の折原さんの作品が生み出されたようにも思える。
道端で拾い集めた枝の先にマッチの頭薬を付けた作品「マッチの枝」もそうである。面白いのは、頭薬が赤色のせいか、離れて見ると、蕾に見えることである。
また、粘土を使った作品も、素朴な味わいを出していて興味深い。もともと陶専攻なのでお手のものだろうが、土を固めた球体(いわゆる泥団子)と、粘土の器が出品されている。
泥団子の1つは、折原さんが小学校4年生のときに作ったものだといい、作品として新たに制作した「作品」と一緒に円柱の台座に鎮座している。ツルッとして硬く、タイトルも「いつかいしになる」。各地の土と水だけで作られていて、プリミティブな美しさがある。
粘土の器は、泥団子と同様、あえて焼成していないのがポイントなのだろう。粘土は焼くと焼結され、そのままの状態では分解されない。
力には弱いので、衝撃をかけ続ければ粉々になるが、そのままでは土に還らない。自然に還る素材というのも今回の個展のもう一つのテーマでもある。
これまでも、折原さんは、線香や炭粉など自然に還る素材を使ってきたが、植物を素材に使った今回は、より一層、循環のイメージが強い。森や山などの自然と大地からのインスピレーションといってもいいのかもしれない。
映像作品が強く印象に残った。炭の塊に折原さんが息が吹き掛け、空気を送り込むことで赤々と燃焼させている。この炭は実は心臓の形をしている。
まさに生と死がテーマである。この映像作品についての文章が会場に貼ってあり、「一緒に生活をしていた身近な人の死を知らせてくれたのは、息だった」と書かれてあった。
2019年の個展でも、折原さんが呼気で植物素材を燃焼させるパフォーマンスが映像化されていた。呼吸は、生きることであり、存在することの感覚であり、生への希求でもある。
燃焼する心臓には、灰に向かっていく死と、エネルギー(温かさ)を発生させる生とが同時に存在している。愛する人の生と死、そして自分の存在をめぐる作品である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)