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尾野訓大個展 ユニバース アイン ソフ ディスパッチ

AIN SOPH DISPATCH(名古屋) 2020年5月30日〜6月20日

 尾野訓大さんは、1982年愛知県岡崎市生まれ。2007年に名古屋芸術大学大学院を修了。

 写真を使った作品を発表し、キャリアを重ねてきたが、筆者が作品を印象づけられたのは、昨年の2019年1月4日〜3月24日に三重県立美術館であったテーマ展「パラランドスケープ “風景”をめぐる想像力の現在」である。

 一貫して、真夜中の風景を4×5の大判カメラによる長時間露光で撮影している。今回は、「ユニバース」(宇宙、万物、世界)をテーマに、冬の樹木、やぶを被写体にしていた。

 2022年のアイン ソフ ディスパッチでの個展レビューは、こちらを参照。

 5時間前後という破格の長い時間の露光によって、かすかな光を定着させる手法である。光が積層し、ハレーションを起こしたように白くぼやけたように見える作品や、空が青空のように見える写真があるため、昼間の風景かと思うが、撮影は、一般的な人間が寝静まった、すなわち、通常、人々が見ることのない夜中の風景に対して向けられているのである。

尾野訓大

 夏であれば、樹々ややぶは緑に染まるかもしれない。画面が白くなっているのは、冬の枯れ枝だからだろうか。真夜中と言っても、月明かりや、かすかな街灯の光があって、それらの白みがかった光が長時間露光によって浸潤しているのである。

 一部に、黄色くなっている写真があるのだが、それは、街灯が黄色味のある光だから。逆に、やぶの細部が比較的明瞭に緑に見えている箇所は、肉眼では暗闇だったところということになる。

 尾野さんはどういう問題意識で、こうした作品を撮り続けているのだろうか。一言で言えば、私たちの見ている世界は、本当に肉眼で瞬間に見ているとおりなのか、宇宙はどうなっているのか、人間の目が捉えていない万物はどうなっているのか—そんな虚実を巡る問いかけであろう。

 長時間露光をするとは、それだけ肉眼で見える光が乏しいという前提がある。それは、もともとの条件が暗いか、肉眼では判別できない光か、あるいは、カメラの絞りによって入ってくる光量を減らすこと。暗ければ、肉眼では見えないか、仮に見えても細部が分からない世界である。それを、長時間露光の可能なカメラという装置なら見ることができるのである。

尾野訓大

 杉本博司さんの「THEATERS(劇場)」の連作は、文字通り古い映画館やドライブインシアターを長時間露光し、スクリーンが放つ映画1本分の光とその時間の空気を凝縮させ、スクリーンそのものが発光体のようになっている艶かしい作品である。

 あるいは、世界の海の水平線を捉えた「海景」シリーズ。これらを含めた杉本さんの長時間露光の作品に、光の時間的な集積、イメージの時間的重なりによる実像と虚像、生と死、時間やリアリティを巡る問いがあるように、尾野さんの作品にも、カメラという装置を通過したことによる、光と時間の厚み、瞬時性の肉眼では見られない風景、真夜中の神秘的な濃密な空気と時間の流れがあるのである。

 私たちが肉眼で真夜中の冬木立や草むらの風景を見ても、暗がりにかすかな黒いシルエットを確認できるだけだろう。仮にそこに数時間佇んだとしても、私たちが見た風景は、その数時間の中の瞬時の風景の記憶の断片でしかない。ところが、カメラという客観的な装置では、人間の目が普段捉える風景とは異なる光景の「真実」が開示される。

 尾野さんの作品を見て、「黄泉の国のようだ」と言った人がいたとギャラリーから聞いたが、そのこと自体が、私たち自身が普段見ている光景とは異質な何かが、尾野さんの作品から感じられるということだろう。

 こうした見え方の背後には例えば、写真技術の草創期に、「心霊写真」が流行したように、カメラは肉眼では捉えられない異世界を写しうるのだという撮影機械への漠然としたイメージがあるし、人間の目とは異なる装置を通じて捉えられた異質な世界の感覚は、見えない世界のメタファーにもなりうるのである。

 一般的に知られた視覚や概念の体系を揺さぶるコード化不可能な「プンクトゥム」が写ってしまうというのは、たとえ長時間の露光でなくても経験する出来事である。尾野さんの写真の、普段は見ることのできない風景を見た私たちが、そこに死後の世界を重ねるというのは確かにうなずけることである。

尾野訓大

 人間は、新たなテクノロジーによって、これまで見られなかった宇宙空間や、素粒子、体内の変化を見るための観測装置を発明してきた。新しいテクノロジーの装置は、これまで知ることのなかった「真実」を見るという視覚の拡張への人間の欲望の現れでもあるが、私は、フィルムに長時間露光するという尾野さんの原初的な制作プロセスに、むしろ時間の厚みをまさぐるような考古学的な探索の感覚を重ね、人間の身体的、感覚的なインターフェイスがかすかに感じながらも決して見ることのない不可視の風景を見て取る。

 見ているものとは違う世界がそこにあるという感覚。その意味では、尾野さんの作品は、宇宙や世界、物質の神秘的な感覚、割り切れないものがあるということをメタフォリカルに提示している。私たちは全てを見ているだろうか。そんな思いとともに世界の裂け目と深遠さを知覚させる作品である。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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