ガレリア フィナルテ(名古屋) 2021年4月6日〜5月1日
岡崎乾二郎 松浦寿夫
ガレリア フィナルテでそれぞれに個展をしてきた岡﨑乾二郎さんと松浦寿夫さんの2人展である。フィナルテでの2人展は2005年、2007年にも開催されている。
岡﨑乾二郎さんは1955年、東京都生まれ。松浦寿夫さんは1954年、東京都生まれ。
2人は、『モダニズムのハードコア』(1995年)や、 『絵画の準備を!』(増補改訂版2005年)などでの共同執筆を含め、 評論、研究の分野でも知られる。共に理論的探求と制作を併行して進めてきた美術家である。
岡崎さんの作品は、豊田市美術館で開催された際の記事「岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS こざかほんまち」「岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ 豊田市美術館 岡崎乾二郎さんの全貌紹介 講演から読み解く」も参照。
岡﨑乾二郎
岡崎さんの絵画は、さまざまな色彩のアクリル絵具の筆触がキャンバスに重なりながら編まれていく。
直感的な装いを見せながら、精妙に抑制されている印象も与え、集中力を感じさせる画面である。
それらの色彩は、それを支持体に載せたときの時間の痕跡、手や体の動きそのものが伝わるようにそこに留まりながら堆積し、絵画を指向していく。
一部は、荒れた筆触であったり、ぬめりのある盛り上がりであったりと、多様な表情を見せている。
絵具の中に粗い粒子が目立った伸びやかな筆触、メディウムが強調されて色彩以上に存在感を増している部分を含め、多彩な色彩の変化と筆触、絵具やメディウムの物質感が官能的なバランスでかかわりあっている。
0号、サムホールサイズによる「ゼロ・サムネイル」のシリーズ「TOPICA PICTUS」は、コロナ禍による危機と不安に陥る中、アトリエにこもり、集中的に手がけた作品群である。それぞれの作品が、特別の場所、固有のトピック(問題)に向き合って描かれている。
ある画家によって、ある絵画が描かれた場所、その固有のトピックに、岡﨑さん自身が降り立つような「旅」を続け、その画家と同じ仮想の場所で描き直すという感覚に近いだろうか。
そのあたりは、「岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS こざかほんまち」で紹介した例が参考になるかもしれない。そして、見る人も、その場所を経験するような感覚を想起する・・・。
同じ方向に重ねられた圧力の強い筆触や、重層的な同系色のタッチが小さなキャンバスを覆い尽くしながら、筆触のズレや濃淡によって絵画空間が生成される、あるいは、瞬間的に憑依したような絵具とメディウムの質感、画面の余白が、突き抜けるような美しく透明な空間へと誘う。
いずれも、小さいながらも、それぞれの場所とトピックによって、それに応じた情報量、密度を感じさせる作品である。
大きめのサイズの作品では、キャンバスの裏に木枠を重ね、厚みを付けてあるが、この「ゼロ・サムネイル」のシリーズでは、小さなキャンバスの周囲に木枠が付いていて、それも絵によって、左右、上下の一部など、バリエーションがある。
また、岡崎さんの絵画では、タイトルが独特で意味深である。一部はとてつもなく長く、物語的である。
今回展示された「TOPICA PICTUS」のタイトルは次の通りである。
・《宙にかかえられたアンタイオス / Fame on Earth Only》
・《A Tree, A Spider Web, and An Eagle / シンサイムダンの栖》
・《頭上安頭のもりのなか / Where the wild things are》
・《Auditussuper auditum / 一陽来復 / the sudden appearance of the angel》
・《Donor Portrait / セミナリオに鳴く蝉たち》
例えば、アンタイオスはギリシャ神話の巨人。シンサイムダン(申師任堂)は李氏朝鮮時代の儒学者、画家、作家、詩人。頭上安頭は曹洞宗の仏法の言葉である。
おのおのの作品では、過去のさまざまな絵画、描かれた場所、イメージが参照され、絵画形式を巡る実験的な試みがされていると想像される。
タイトルの言葉を頭に入れつつ、筆触の広がりを見る。眼差しがその中を動いては留まって、それを繰り返しながら、静かな、継起的な経験へと導かれる。
絵画1つ1つの固有性、その空間、筆触、色彩、イメージ、空間、言葉、場所性、物質、記憶などから、無数の別の場所へとつながり、そうして編み上げられた世界の豊かな関係性との開かれた交感を促してくる。
絵とは、それぞれの固有性がもつ複数性の世界を知覚することによって、回路が開かれていくもの、絵を見るとは、それにあずかる深遠なことである、と。
松浦寿夫
展示された松浦さんの作品のサイズは大きく、最大のもの画廊正面に掛かっている。
多彩な色が筆触を生かしながら支持体に重ねられている感じで、例えば、樹林や植物、建物、人に見える形象の原形というべきものと、絵具そのものというべきものが幾重にも立ち込めている。
絵具の塗りは多様で、薄く溶いた絵具をしみこませたようなものから、筆触が印象付けられるもの、かすれたもの、絵具の盛り上がり、ざらついた質感、もやのかかった感じなどが、色彩として重なり合っている。
全体に、以前、フィナルテで見た頃の柔らかい作品と比べると、空間も色相も強くなっている。
それらは、1つの絵画的な空間でありながら、同時に何層にも部分が重なっているようにも見える。
松浦さんは、「庭園」「造園術」という主題で絵画を制作してきた。その絵画空間は、1つであると同時に、多様な異質な要素、レイヤー、光と影、小空間など、異なる次元が包摂されていると感じさせる。
それらの色彩は、さりげなく淡々としている。形象でなくても、あるいは形象のように見えても、それらが混在した空間に、静けさ、統制されている感覚とともに、自然のようなざらつき、さざめきが感じられる。
それぞれの色彩、形象は完全に結合するというより、行き来するようであって、緩やかに相互に引き合い、あるいは、間合いをもち、そうして相互に重なっている。
それゆえ、空間の奥からわき起こり、あるいは後退し、うつろい、流れ、揺らぎ、律動する。
つまり、色彩が空間に広がっていても、決して満ちることはなく、むしろ、オーバーラップを反復し続ける。
そこでは、色彩が響き合いながら、不調和をはらみ、残響とともに待機、予兆を感じさせる空間が現前している。
その「庭園」では、自然のさまざまな事象や条件、出現、消失の動きを包み込み、不調和と調和、うつろいと静寂、緩やかな干満が繰り返されている。
さまざまな次元が現れ、交差し、去っていく、かすかなざわめきのような空間である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)