STANDING PINE(名古屋) 2020年11月7〜28日
大泉和文個展 Beyond Constructivism
大泉和文さんは1964年、宮城県生まれ。1987年に筑波大学芸術専門学群を卒業し、1993年、同大学院修士課程芸術研究科総合造形を修了した。
名古屋を拠点に活動。1991年以降、アン・ビルト建築を三次元CGによって再現する一方、オートマティック・ドローイング・マシンなど、インタラクティブな要素を含んだ可動式のインスタレーションを神戸ビエンナーレやアルス・エレクトロニカ(リンツ、オー ストリア)などで発表してきた。
それらは、鑑賞者の動きに反応して動く、あるいは、鑑賞者自体がその装置に関わって体験する、といったものである。
精密に設計され、大泉さん自身が、アルミやアクリルを機械加工して制作している。
大泉さんは、東京都現代美術館などで1996年に開催された「未来都市の考古学」展にCG制作などで参加したとも記憶している。
地元では、その後、2004年、名古屋市内の中京大学アートギャラリーC・スクエアで、「シュレーディンガーの猫」と題した自動描画装置を出品する個展を開催した。
ギャラリーのリリースによると、大泉さんの作品はコンピューターを使っていても、テクノロジーを高度化させるメディア・アートではなく、むしろ現代美術との接近を図っている。
過度にテクノロジーに依存することなく、初期のコンピューター・アートがもっていた多様性を示しつつ、むしろ、現代世界を見据えたコンセプトによって、人間のエモーショナルな部分に訴えることを考えている。
それは、大泉さんの作品の素朴な動き、身体性からも、とてもよく分かる。そこにバーチャルな世界はないのである。
今回、出品したのは、《可動橋/BH 3.x》と《Schrödinger’s kitten(シュレーディンガーの仔猫)》の2点である。
《可動橋/BH 3.x》 壁(の破壊)から可動橋へ
タイトル通り、可動橋のインスタレーション作品である。
今回の作品《可動橋/BH 3.x》は、2018年にN-mark5G(名古屋)で発表した《可動橋/BH 1.0》、2019年に同所で見せた《可動橋/BH 2.x》に続く連作である。
これらの可動橋は、 橋げたが一定間隔で上下し、 分断された通路をつなぐ。
普通は、橋げたが上がっていて渡ることができない。観客の存在や意思とは無関係である。橋げたが下がっているときは渡ることができるし、上がっているときは渡れない。
また、橋板は下が見える透明なアクリル製。それを支える橋げたも、細いアルミニウム構造になっているので、華奢に感じられ、渡るのが怖いのである。
大泉さんが作品を制作した背景は下記の通りである。
物心ついた時,世界は東西二陣営に分かれていがみ合っていた.ベルリンの壁はその象徴的な存在であり,近世の城郭都市が20世紀半ばに突如現れたような歪な存在だった.
壁の一面は鮮やかで自由なペインティングに覆われ,もう片方は打ち放しのコンクリートのまま一切の表現を封じ込めていた.
一方でこの東西冷戦構造と壁の存在は,理想とはほど遠いながらも,未来に続くものと信じて疑わなかった。
それが1989年をもって崩壊した時,楽観的な言説が世界を覆ったし,幾つかの枠組みは確実にシフトした.
翻って現在,世界各地に何度目かの壁が建設される時代になった.物理的な壁も確固として存在するし,思想傾向,観念形態としての壁もある.
この傾向は暫く続きそうであるし,その数も規模も大きくなる方向に進みつつある.
ギャラリーのリリースによる
こうした背景を知ると、大泉さんの作品は明瞭である。
芸術が、壁でなく橋を作ることを謳いあげているのである。
相手を拒否・分断する壁でなく、両岸をつなぐ概念としての橋を架けること。
しかも、その橋は、こちらの都合、こちらの希望で渡れるものではない。あくまで、橋の都合(他者の都合)で上下する。
つまり、ここには、「待つ」という思想もある。人間はことごとく、待つのが苦手な生き物で、すぐに感情を行動に移してしまう。待つこと、しかも、相手の都合に合わせることが鑑賞者に求められるのである。
華奢なアクリル板とアルミニウム構造の橋 は、渡ることを躊躇させる。それでも、渡ること、 離れている 両者をつなぐこと、他者を知ろうとすること。
時が来るのを待って渡る。効率性のために地形を強引に変形させるのではなく、譲り合う。
ここに、大泉さんは「可動橋の思想」とでもいうものを考えているのではないか。
《Schrödinger’s kitten(シュレーディンガーの仔猫)》
もう1つの作品は、《Schrödinger’s kitten(シュレーディンガーの仔猫)》である。簡単に言えば、コンピューターによるドローイング・マシンである。
タイトルは、量子力学の有名なパラドックス「シュレーディンガーの猫」に由来する。
筆者が訪れたときも、壁に据え付けられた装置が、自動でドローイングを続けていた。
ギャラリーによると、鑑賞者の存在、動きを感知し、それに応じて、キャンバスがレール上をダイナミックに動きながら描画する。鑑賞者がいないときは、マシンがキャンバスに水平線を描く往復運動を続ける。
筆者は、前述した通り、2004年に、中京大学アートギャラリーC・スクエアで「シュレーディンガーの猫」という作品を見ているが、そのときは、観客が自動描画装置内を歩ける大型のインスタレーションであった。
今回は、シリーズ3作目。装置が、S6号(41cm×41cm)のキャンバスにドローイングをするように小型化された。「仔猫」というタイトルも、そこから来ているのだろう。
ギャラリーのリリースによると、コンピューターが膨大な組み合わせの中から選んだキャンバスの移動方向、距離、加速度などの集積が、描線を決定する。観客が去った後は、キャンバスは、静かな水平移動を繰り返す。
大泉さんの作品が見せたいのは、完成したドローイング、あるいは装置の仕組みというより、「描く行為」そのもの、その描くことに複数の他者である「あなた」が関わっていることと、完成したドローイングの関係である。
1つのアイデンティティーの画家でなく、複数の観客の存在によって、インタラクティブに線を変化させて描く機械。
個性を切り捨てた複数性による「描くこと」が、ここでは、インタラクティブに動くコンピューター装置によって成り立っているのである。
これは、例えば、岡崎乾二郎さんが自身の描いた手の動きを模倣するようなプログラミングで画板を動かす、つまり、岡崎さんという個性を重視した描画ドローイングとは異なる。
訪れた観客は、身体性のアナロジーである装置の描く行為から、自分の存在によって変化するドローイングの決定性/非決定性、個と複数性、全体性に思いを巡らすことになる。
個々の線は、観客が装置の前に立ち、作品を見ることによってインタラクティブに描かれる。しかし、完成したドローイング作品がどうなるかは分からない・・・。
大泉さんは、このインタラクティブに引かれる個々の線の集積が、完成したドローイングではどうなるか分からないという関係を、個々の合理的行動が総和としては好ましくないことをいう経済学用語の「合成の誤謬」や、量子力学において、ミクロの世界の量子現象をマクロの世界に拡張すると、生と死が同時にあるような奇妙なことが起こりうるという命題「シュレーディンガーの猫」にたとえている。
個にとって合理的なことが、複数性の集積、全体性で見たとき、望ましいこと、美しいことなのか。
自分のこと、1家族や1地域、1カ国、個々の出来事だけでなく、ミクロとマクロ、個と複数性、全体性の関係を巡る視座を促している作品と言えるだろう。