N-MARK B1(名古屋) 2019年9月6〜22日
1988年、大阪府生まれの若手の個展である。会場に入ると、正面の壁に大きな矩形のシートが掛けられ、その下の3分の2はそのまま床にだらりと敷かれている。シートは、大量の血痕のような濁った赤で染められ、そこに野草のような花が無造作に置かれている。意表を突かれるのは、地下の会場に通じる階段と、シートの周辺の計3カ所に、液晶が破損して線などが入ったモニター画面が置かれていることだ。
このインスタレーションに漂うのは、禍々しいほどの不穏な空気である。シートの血痕の痕跡は、2019年4月21日にスリランカの最大都市コロンボなど同国内の各所で同時多発的に発生したテロ爆発事件のうち、キリスト教会で起きた惨事の現場での血痕のイメージから取られている。それは、この空間に居合わせた者に不吉で強烈な印象を与えるとともに、赤色がシートを流れ落ちるようにも見えるためか、時間とともに消えてしまいそうな、はかない表象でもある。
会場を訪れた人は、用意された草花の一つを取ってこのシートの上に手向けるよう促される。そう、この死の不吉さがにおい立つ仮構の場は 同時に祭壇のような場でもあるのだ。と、気付いたのだが、3台の破損した液晶画面に、訪れた観客がリアルタイムで映り込むようにカメラが設置してある。だが、破損した液晶画面なので、明確には映らず、液漏れしたような中に影のように脆弱な存在として映りこむだけである。
こうした液晶モニターは、インターネットやテレビ放送によって、瞬時に世界中の惨事を私たちに伝えはする。けれども、スリランカで250人以上が亡くなった大事件さえ、世界を飛び交う情報としては、ほんの一瞬の、はるかかなたのイメージとして流れていき、誰でも、いつでも入手可能な軽薄なデジタルデータになってしまう。それは、1990年の湾岸戦争での多国籍軍の、目標を捉えた攻撃が瞬時にテレビのリアルタイム映像によって世界中に伝わり、ゲームのような戦争といわれた時代の未来の姿でもある。
こうして考えると、大石の作品に見えるのは、世界中で次々と勃発する戦争、虐殺、テロ、暴力などの惨事の血痕という物質感と、それらのはかないまでに瞬時に流れていく薄っぺらなイメージの間で引き裂かれている状況である。テロ現場の血痕のイメージを生々しい物質感で強調し、観客に草花を手向けさせる行為を促しながらも、大石自身が血痕のイメージを取ったのも、インターネット上のデジタルデータにすぎないのである。破損した液晶モニターに、草花を手向ける自分の体のおぼろげな影がリアルタイムで動いた時、それが自分だと確認できないほどの映像だけに、よりいっそう、自分自身の身体もまた、そうした大惨事と同様、流れていく瞬間のデータでしかないのかと意識させられる。