写真は、全て©︎松原豊
三重県文化会館小ホールで2019年9月28、29日、老いのプレーパーク発表公演「老人ハイスクールDX」(作・演出=菅原直樹)があった。
菅原さんが主宰するOiBokkeShi、三重県文化会館が組んで2017年から始めた3年がかりのアートプロジェクトの集大成ともいえる公演である。菅原さんは、平田オリザさん主宰の劇団「青年団」で豊富な演劇経験をもち、特別養護老人ホームで介護福祉士として介護にも携わった体験から、演劇を通じて、老いや介護、認知症などの課題と向き合う活動を展開。斬新な着想と活動が全国的に注目され、ワークショップや講演会などに奔走している。そんな菅原さんの指導の下、「介護を楽しむ」「明るく老いる」をキャッチフレーズに、2018年に公募で19歳から90歳(結成当時)が集まり、同年12月には、発表公演「老いたら遊ぼう!老人ハイスクール」を開いた。
メンバーの大半は60代以上。今回は、昨年の舞台に新たなシーンを加えた最新作である。公演は、学園モノの「人生はごっこ遊び!」と、老人ホームを舞台にした「夕暮れのロックンロール」の二本立てである。前者は、高校生のようになった高齢者らが恋や非行にと突っ走る青春群像劇、後者は、父と息子の葛藤、破天荒な看取りを描いたシリアスで、ほろっとさせるホームドラマである。
前者では、年配、高齢の出演者が高校生を演じたというだけではなく、作品の中で、それぞれのキャラクターを演じる「ごっこ遊び」をしていることが明かされるので、一種の劇中劇である。会話の中で、「(私たちは)実は親子」「(私とあの俳優は)本当は夫婦」というセリフもあるので、どこまでフィクションで、どこからが事実か分からないが、今、舞台で起こっていることがリアルなのである。後者では、50代引きこもりの息子が老人ホームで最期が近い父親の看取りのため、老人ホームの居室にテントを張って寝泊りする一方で、若い時、父親に反対されたバンドによる音楽活動をしようといきがっている。最後に「高校三年生」を歌い、寝たきりの父親が元気に息を吹き返す場面で終わる。
筆者が、菅原さんのことを知ったのは、2016年2月、岐阜・可児市文化創造センターで開かれた「世界劇場会議」である。この中で、菅原さんは、2014年から岡山県和気町で展開していた「老いと演劇『OiBokkeShi』」の活動について報告。演劇と老いや認知症をつなぐしなやかな発想と可能性、演劇の核心への探究心に感動した。
そこで紹介されたのは、80年、90年を生きてきた高齢者には、さまざまな人生の物語が詰まっていて、例えば、腰が曲がったおばあちゃんがゆっくり歩くだけで絵になる、とても若い人には真似のできない、人生が滲み出るような存在感のある「演技」ができるという事例である。菅原さんは、「お年寄りほど、いい俳優はいない」と確信する。
菅原さんによると、施設にいる高齢者は、介助される存在ではあるが、同時に、その人なりの《役割》を求めている。何もすることがない、何をすることも求められていないというのは、とても辛い。《役割》は、生きることにおいて不可欠なのだろう。つまり、施設での高齢者は役割のある「俳優」で、介護者はそんな高齢者に役を割り振り、生き生きとしてもらう「演出家」あるいは「共演者」になるべきである。筆者は、この「高齢者施設=劇団(演劇)、高齢者=俳優、介護者=演出家・共演者」というアナロジーに、心動かされた。そして、俳優である高齢者が仮に認知症なら、相手の言動がおかしくても、それを否定するのではなく、演出家として受けとめる度量、それと付き合って、こちらも自然体で演じてみる遊び、自分を投げ出して楽しんでみる余裕が求められる。今回の舞台でも、実際にそうした場面があったし、セリフを忘れて、近くにいた別の俳優が教える間もあって面白かった。
「彩の国さいたま芸術劇場の“ゴールド”な挑戦 ノゾエ征爾、岩井秀人、菅原直樹が語る『高齢者演劇』の現在」(ステージナタリー)でも語られているように、高齢者演劇では、作品と発表会との境目を行ったり来たりしている部分もある。作品としての完成度を求めはしても、それが全てではない。だからこそ、舞台の上に、その役柄から素の状態の本人まで、さまざまなレイヤーが浸透しあって、フィクションと現実が混在し、それがリアルになるのである。介護も演劇も、画一的なマニュアルに従ってやるものではなく、相手の個性や人生のストーリーに合わせてクリエイションするものなのだ。これは、ある部分で、俳優(演技)と演出家(演出)の関係だけでなく、俳優(演技)と俳優(演技)、俳優(演技)と観客(鑑賞)のリアルな関係にも当てはまるのではないか。
先ほど、菅原さんが、腰の曲がったおばあちゃんがゆっくり歩くだけで存在感がある、と述べたことについて書いた。演技をすることには、常に、別の人になりきることと、その人自身の存在感とのせめぎ合いがある。それは、リアルをめぐるフィクションとノンフィクションのせめぎ合いと言ってもいい。演劇に入れ子構造が多く現れるのは、そのためである。劇中劇という形を取らずとも、現実とフィクションが交差し、役のレイヤーが生じるので役柄(役割)が錯綜するのである。
公演当日に配られたペーパーに、菅原さんの「演劇は青春そのもの」という言葉があった。それは、大学時代に演劇をしていた筆者の実感でもある。劇団(演劇)は、俳優、演出はもとより、さまざまな裏方が必要で、それらの《役割》が有機的に結びついて、制作する過程があり、その結果として、一つの作品ができあがる。つまり、劇団(演劇)には《役割》がいっぱいあるので、高齢者にはもってこいなのである。
年を取っていくにつれ、サラリーマンや職人、教師、商店主など、それまで仕事をしていた役を奪われ、そのうち、父親や母親、夫や妻という役もできなくなる。そもそも人間は、父親らしく、母親らしく、妻らしく、夫らしく、お姉ちゃんらしく、弁護士らしく、医者らしく、いい人らしくなどと、誰もが程度の差はあれ人生において演技をしている。そして、全ての人が毎日の生活で自分自身を演じている。舞台の上では、例えば、俳優を演じ、俳優が演じる「高校生」を演じ、自分が高校生だった時の自分を演じ、同時に今の「自分」も演じ、そしてセリフを忘れる自分自身も出てしまい・・・というように、役との関係でいろいろな役割のレイヤー、いわば、その人の複数性が成り立つのである。実際に、今回の舞台でも、定年退職後のシニア、理学療法士、介護真っ最中の主婦や、親子で参加したメンバーなど、さまざまな人が参加していた。フィクションと現実が分からなくなる場面があったが、それがまた面白いのである。
ここに演劇の核心がある気がする。「老いのプレーパーク」とは、素晴らしいネーミングである。「よりよく老いるヒントは遊びの中にある」のは真実だろう。遊びの中に役(役割)があって、人生が演劇のように楽しければ、つながりができ、何もすることがなく、ボーッとすることもない。人生は演劇であり、演劇は人生なのだいうことを改めて教えてくれた、楽しい舞台であった。