愛知県立芸大サテライトギャラリーSA・KURA(名古屋)
2021年3月6〜21日
地面を壁を歩く/アフターピニェイロス
小栗沙弥子さんは1978年、岐阜県生まれ。岐阜県在住。2002年、愛知県立芸術大学美術学部日本画科を卒業し、2004年、愛知県立芸術大学美術学部油画科研究生を修了した。
その後、2013〜2014 年、ポーラ美術振興財団在外研修員としてタイに滞在。2019年には、レジデンスアーティストとしてブラジルに滞在している。
あいちトリエンナーレ2010に出品し、個展、グループ展などで幅広く活動している。
今回の個展は、素材も、手法もシンプルながら、とても美しい展示になっていた。
飾り
1つは、「飾り」と名付けられたキャンバスの木枠を細く削り、床や壁に並べたインスタレーションである。
一部は、絵画のように壁に掛けられている。床置きの作品は、間隔をあけて連なるほかに、重ねられている部分もある。
規格品であるキャンバスを削ることで、生き生きと脈打つような感覚が与えられている。それは、キャンバス木枠でありながら、既に別のものになっている。
木枠は、グリッド構造によって、空間を分節する。
とてもナチュラルで、窓、あるいは建物の一部や、道、街の俯瞰図に見え、そこに息づく空間が生成している。
もともとは絵画の支持体である画布を張り留める木枠。小栗さんは、画布さえないまま、そして、木枠そのままでもなく、細く削り、それだけによって、豊かな空間をつくっている。
木の色合いの微妙な変化、不揃いな感じ、矩形の枠のかすかな傾き、木の痩せた箇所と太い部分、木が交差している部分、それらの重なりと連なり、空間と間のテンポ・・・。
ここでは、削られた木枠、絵画の記憶、グリッド構造と空間の分節が、調和して1つの世界をつくっている。
彫刻などの台座や展示用ガラスケースなどを展示する竹岡雄二さんという美術家の方がいる。
そこでは、見せる、展示するという行為、美術という制度、あるいは展示空間、場を問い掛ける。
あるいは、絵画の形式からのアプローチで、支持体、キャンバスの形態、側面、裏面、木枠などに関心を向ける作家はいるが、小栗さんの作品は、絵画や展示、美術という制度のかすかな余韻を残しながらも、キャンバスの木枠であることすら放棄し、とても自由である。
もちろん、キャンバスの木枠が素材ということはすぐに分かるし、とりわけ、壁掛けの木枠からは絵画が想起されるが、そうした意味は知りませんよと言わんばかりに、軽やかで、屈託なく、心地よく、そして美しい。
キャンバスの木枠はもともと、絵を描くための目的をもっていた規格品である。
つまり、ここでは、ある目的をもって作られた製品が、削られることで本来の用途や規格を失っている。
意味をもったものが「こうあるべき」をふりほどき、自分を認め、そこに在ること、そこから生まれる関係性と空間性の豊かさ。そんなものの隠喩になっているように見えた。
自分の居場所をもち、自分らしさとはいえないほどの個として息づき、温かな存在感と、周囲との関係性、つながり、自分の空間をもっている。
地面を壁を歩く
また、「地面を壁を歩く」というシリーズでは、さまざまな紙の断片を使って、小さな小屋のようなミニチュアをつくり、壁に取り付けている。
展示室内の壁にしつらえたものと、窓の外の外壁にとりつけたものがある。
とても、ささやかな存在感ながら、建築的で、そこに小さな空間をつくっている。
ゆがみ、ねじれ、傾き、たわみ、乱れなど、紙素材ゆえの不調和が、逆に新鮮である。
それは、変化するもの、うつろいゆく世界、そこに暮らすことの息遣いのようである。
とても、弱々しく、フラジャイルで不安定なのに、それでも、確かに構築的である。
そうしたことが、視覚的な要素、空間的な性質を超えて、美しく感じさせてくれるのだろう。
それは、希望のようにも感じられた。
取るに足らない紙片。それでも、構築すること。破壊的でなく、建設的であること。
「飾り」の木枠が、削られることで命を宿したとすれば、これらのシリーズは、エフェメラルでありながら、組み立てられ、命を託されたのである。
その他
スケッチブックを細かく切ったキッチンペーパーで埋めた「無題」などの平面作品、発泡スチロール、紙粘土を使った立体「道石」などもある。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)