モノトーンの闇に浮かぶ男性の裸体など、儚い人間の生のかけがえのない時間を捉えた写真で知られる写真家、野村佐紀子さんの初めての大規模な個展が、2019年12月21日から2020年2月24日まで、愛知・碧南市藤井達吉現代美術館で開かれている。1990年代から、荒木経惟に師事。世界をいとおしみ、存在することの奇跡と変わりゆく哀切さのあわいにカメラを向けてきた。
同館は、本展の終了後、増築のため休館に入り、2021年秋にリニューアル・オープンする。
筆者が野村さんに出会ったのは1996年なので、既に20年以上がたっている。当時、担当していた新聞文化欄の新年企画のシリーズの1つとしてインタビューした。そのときの野村さんの言葉を今言い直してみると、野村さんは、そこに存在している人間、風景、出来事、事物をそのまま全て受け入れて、その光と影を撮っている。そのとき、その場所の気配。だから、被写体が何かとか、その性質、配置、美しさや形、動きを狙っているのではない。言いかえると、野村さんが感じたそのときの相手の本当のもの、感情のやりとりと厚み、距離感。被写体への愛おしさの時間と言えばいいか。相手を見て待って立ち上がってくるものを撮る。
展示は2階の空間から始まり、1階、地階へと続く。最初の作品は、野村さんの故郷、山口県下関市から見た、西に沈む太陽。地元の風景から入って、野村さんが1991年からこれまでに撮影した膨大な写真から厳選した290点の写真が連なっていく。未発表のものを含む過去の作品、新作で構成され、全体が「新作」のようにつながっていく。花の静物、ベッド、雁行する渡鳥、少女、家族、葬送、夜景、夫婦、引き込み線、工事現場、仏事、老いた手、男性の裸体、病室‥‥。ほとんどはモノクロームだが、一部、カラーもある。生と死、あることへの愛と亡くなることへの哀しみが匂いたつ。
野村さんは、男性ヌードの写真家のイメージが強いが、実は初期から、目に映る世界すべてを被写体にしている。事後的にその中からグルーピングしたものが写真展や写真集のテーマになるわけだが、今回は、作品点数も多く、もっと大きな流れを感じる。
さまざまな時間、場所、人間、静物、動物。それらが時系列、テーマ、ジャンルごとに展示されることもなく、ランダムと言えばランダムに流れていく。ある写真を中心にいくつかの写真が寄り添うように、そして、それらが集まりになって流れていくように展示されている。下関を起点に、台湾、中国、インド、パリ、スペイン、碧南など、西へと向かって地球を1周するような仮想的なロードムービー風の軸線はあるものの、撮影年も場所も混在している。キャプションもない。鑑賞の助けを望む人もいると思うが、写真を説明や確認の材料として捉えてほしくないのだろう。それは、強弱をつけながらも静謐に流れていく野村さんの生、そして、もう1つの生や世界とのふれあいの時間のようである。
ただ、それぞれの写真に背景がないわけではない。祖母の遺骨、自宅前の寺院の花、アウシュビッツの引き込み線、亡くなった長年のモデルの男性、スペインの詩人ロルカが銃殺された場所、80代のサックスプレーヤーの結婚写真、廃校になる校舎、碧南のお寺での万灯供養‥‥。おばあちゃん子だった野村さんは、下関の沈む西日の情景に彼岸のイメージを重ねている。何気ない写真に確かな生の手触りと死の喪失感、被写体との時間がある。どこか遠くの、過ぎ去った過去の、無音の、それでいて、見る人自身が近く感じられる人間の営み、震えるような生と死のあわいを感じてほしい。光に照らし出されるものでなく、浸潤する闇の陰影が濃いからこそ見えてくるかすかな光へ意識が向かうとき、感知されるもの。作品を見通すと、死生観のようなものがにじみ出ていることに気づく。
担当した学芸員の北川智昭さんは、カタログの文章で、ヨーゼフ・ボイスの言葉を引用しつつ、優れた芸術作品に共通するものとして「死へと続く裂け目のようなもの」を挙げ、その徴は「息のように知覚」することで意識できるものだと書いている。野村さんの何気ない写真、誰もが目にしているかもしれない日常の生の温もりの残香とその延長にある死を意識の奥底にすくい上げることで、野村さんが感じた愛おしさ、慈しみ、祈り、追憶、哀しみ、喪失感が自分のことのように心の中にしみだし、世界の輝きとただ1人の人間の生の恵み、それらとかすかにふれあっている悦びとはかなさが共有される。
今回、野村さんは碧南市に通い、市内で撮影した作品も加えている。特に美術館の前にある西方寺で亡くなった東本願寺(真宗大谷派)の僧で宗教思想家だった清沢満之(1863-1904年)をモチーフにした一連の写真が重要な位置を占めている。清沢満之は「宗教哲学骸骨」(1893年)などの著作で宗教哲学が高く評価される。
野村さんは、結核が元で41歳の生涯を閉じた清沢満之が、最後に過ごした西方寺の病床から見える庭の光景も撮影している。命尽きる直前に清沢満之が目にした最後のこの世界であろう。病に冒された清沢は自分がコントロールできない人間の生と死に向き合い、生や死を、自分自身の存在を、自分を超えた大きな存在の働き、絶対無限によって、ここに運ばれてきたものだと考えるに至ったという。
あるがままに見つめ、受け入れる他力信仰を確固としたものとして、全てを肯定的に受け入れる。筆者は、この碧南市で過去最大の個展を開くことになった野村さんの写真に、清沢満之の受容による幸福、恵みと共通するものを見いだした。撮ろうとした世界の日常の全てをそのまま受け止めている。だから、ゆったりとした時間が流れる。生と死さえも商品化され、目まぐるしく動かされる中で、それとは違う、目の前に存るものを受け入れることからだけ生まれる、等しく愛おしい時間である。野村さんの展示を見ていて、その時間に触れている自分がいることに気づいた。