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丹羽康博展 麻痺—Paralysis L gallery(名古屋)で2024年5月11-26日に開催

L gallery(名古屋) 2024年5月11〜26日

丹羽康博

 丹羽さんは1983年、岐阜県土岐市生まれ。名古屋芸術大学美術学部造形科卒業。愛知県立芸術大学大学院博士後期課程単位取得退学。L galleryでは2020年の「丹羽康博展 —警鐘—」以来、4年ぶりの個展となる。

 丹羽さんの作品は、見た目に比較的、「美術」然としたものから、どこが「作品」なのか分かりにくいものまで、幅広い。

 今回の個展ではいえば、振り子時計や掛け時計にペインティングをした作品が前者、コピー用紙をくしゃくしゃにしたものを床に散乱させた作品などは後者である。

 造形性が表に出ず、レディメイドのオブジェを装いながら、それさえも、はぐらかされていると感じる場合もある。今回でいえば、麻雀ぱいが箱に入って並んでいるだけの作品、2つのアウトドアチェアが背中同士をつけて置いてある作品である。

 以前も書いたが、丹羽さんは大学院の修了制作で「詩としての彫刻」という言い方をしている。2014年に愛知県美術館で開催された「APMoA Project, ARCH  vol.10 丹羽康博」では、 「詩としての行為」というタイトルが付けられた。

 「詩」といっても定義は難しいが、必ずしも美学的と言うわけではない。心情的、感動というものでも、意味的なものでもない。

 強いて言えば、喚起性。見る者に何かを呼び起こす。しかし、それは声高なものではない。静かで、耳を澄まさないと聞き逃してしまうほどの、世界からの小さな声である。

 丹羽さんの作品は、たとえ色彩を伴っていても、あるいは造形性があったとしても、何かを明確に強く指し示すことはなく、静けさの中に何かを呼び起こすのだ。

 一般的に言えば、丹羽さんの作品は「彫刻」というより一般的にはオブジェ、あるいは立体のたぐいである。だが、丹羽さんは「彫刻」という言葉に特別な思い入れがあるようだ。

 丹羽さんの「詩としての彫刻」を、ボイスが提唱した「社会彫刻」になぞらえれば、同様に「拡張された芸術概念」である。だが、ボイスの眼差しが人間社会の事象に向けられたとすれば、丹羽さんの眼差しは、社会でなく、身の回りの世界(宇宙)に向けられているのだ。

 だから、そんな丹羽さんの作品を、「詩彫刻」「事象彫刻」「外界彫刻」と呼んでもいいかもしれない。それは、世界の裂け目のようなかすかな徴を見せるような試みである。

 身の回りの平凡な事物、現象に対して、わずかに手を加える、あるいは、ある行為を繰り返すことで、人間の内界と外界との新たな結びつきを裂け目からのぞかせる。

 しかし、それは、コンセプチュアルでもない。いわゆる、意図された意味、観念、思想を丹羽さんは回避しているからだ。

 裂け目というのは、ほとんど何もないことを見せるようなものだ。それは偶然性と必然性のあわいで呼び覚まされ、気配、神秘、謎、感覚、記憶、身体が関係してくるが、制作手法は極めて繊細で危ういほどにたどたどしい。そういう、無に近いところからしか、立ち上がらない世界との新たなつながりが示されるのである。

麻痺—Paralysis

 今回のメインの作品は、麻雀牌が素材である。筆者は麻雀をしないが、盲牌もうぱいがかかわっている。盲牌とは、指の腹で牌の図柄の凹凸をなぞり、感触で牌を見ずに、どの牌かを識別することをいう。

 つまり視覚性でなく、触覚性。これらの連作は、丹羽さんが一人で、盲牌をし、当たった牌から箱に戻して収めていくという行為を繰り返した作品である。

 以前、丹羽さんはダイス2つを振り、ゾロ目が出るまでの数字の組み合わせを1枚の紙に書き留め、それを繰り返した作品があるが、それに近い。

 つまり、箱に収められた麻雀牌に、ある秩序がある。それが新たな視覚性を生んでいる。レディメイドの麻雀牌に、作家の触覚性、つまり身体、そして記憶、経験、時間が関係し、秩序を生む。そんな作品である。

 くしゃくしゃにした紙はギャラリー空間に散らばって、一部は山のように盛り上がっている。鑑賞者が歩くと、それによって動くので、決まった形はない。前回の個展で、丹羽さんが見せた、正方形のトタン板をしわくちゃに折った作品に共通するものがある。紙は、全て愛知県常滑市の自宅で制作し、わざわざギャラリーに持ち込んだ。

 つまり、束の紙を運び込み、ギャラリーで丸めれば楽なのに、あえて体積が膨らみ、運びにくい状態にして搬入している。造形とは何か? 偶然とは? そして、移動、可変、物質と空間、個と全体、同一性と差異、集合と要素など、物に関わる、さまざまな現象が、作家である丹羽さんの存在との関係でたち現れている。

 ギャラリーの入り口に同じサイズの木片を詰めた袋が積まれている。このうち5袋は口が縛られ、1つだけ開いている。木片のいくつかは、生活圏のどこかに丹羽さんが置いてきたという。この作品も、物のあり方が関係する。

 振り子時計、掛け時計に絵具を塗り重ねた作品が多く出品されている。振り子や秒針の音が聞こえてくる。絵画ということなら、時計の表面が支持体である。

 絵画は視覚性の中に、作家の制作の時間や、表象された内容の時間、見る人の鑑賞の時間が関わるが、この時計の時間は、それらと異なる、今という普遍的な時間である。絵画と時間との深遠な関係がほのめかされる。

 ギャラリー屋外のアウトドアチェアに座る。2つのチェアは、向き合っておらず、逆向きになって配置されている。「鑑賞者同士が向きあって、他者と出会いましょう」というたぐいではない。そんな体験型/コミュニケーション型アートのような、野暮なことを丹羽さんは、しない。

 座ると、屋外の風と陽光を感じ、気持ちが良い。1人である。後ろに誰かが座ってくれたら、人間の気配を感じるだろうか。

 誰も来ない。しかし、それによって、むしろ、見えない人間と人間の関係、自分と世界の関係、その刹那さと存在の意味がほのかに感じられる。そんな作品である。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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