L gallery(名古屋) 2020年9月26日〜10月18日
丹羽康博展
丹羽さんは1983年、岐阜県土岐市生まれ。名古屋芸大、愛知県立芸大を経て制作している。
丹羽さんの作品は、多くの場合、作品のように見えない。
2015年、愛知・文化フォーラム春日井の広いスペース「交流アトリウム」に折り畳み椅子を乱雑に散りばめたインスタレーション、2014年、愛知県春日井市の旧・愛岐トンネル群で、廃線下の河原から石を運んで積み上げた作品、美術館の床の正方形のカーペットを剥ぎ取って積み上げた作品・・・。
あるいは、ダイス2つを振り、ゾロ目が出るまでの数字の組み合わせを1枚の紙に書き留め、それを繰り返す作品、自分の呼気を3分間、一定のルールのもと、自分が死ぬまで瓶詰めにしていく作品(今回、1点展示されている)。
ある作業、行為の反復、空間との関わりが、ふと、見る人の眼差しを見えていないものへと向かわせる。聴覚を聞こえていないものへと、想起されるものを記憶の地層の奥に沈んでいいたものへと向かわせる。
あるいは、1人の時間を別の人との出合いへと、理解したつもりでいたことを世界の不可思議さへと、連れて行ってくれる詩のような作品である。
—警鐘— 2020年
丹羽さんは既に愛知県立芸大大学院の修了制作に「詩としての彫刻」(2007〜2009年)という言い方をしている。
自然や身の回りの事物に対して、わずかに手を加えること、ある行為を繰り返すことで、言葉や概念を振り解いて《詩》をつくる。
自然や事物、行為を発見し、提示すること。丹羽さんの作品は、多くの他の美術作品のような意味では、作品としての形、イメージ、意味を伴っていないことも少なくない。
物や言葉、行為の意味の重力から離れ、強いて言えば、記憶、思考や呼吸などの心身の現象、気配を作品にする。
静かに、心を落ち着けて、深呼吸して、瞑想するように見る。過去から未来への時間の流れの中で、今、その瞬間、目の前にあるもの、ある場、ある条件で、対象、光景を眺め、出会い、感じることが作品ともいえる。
それは、従来の物と物、物と意味、言葉と意味、行為と意味、物と空間、物質と形、用途の関係を、一度、ご破算にし、ずらし、神秘性を開示することでもあるだろう。
過去の作品で、薄いトレーシングペーパーに水彩などさまざまな画材を塗り続けたドローイングの連作がある。
そこには線を引く行為、地と線、色という関係がなくなるほどの臨界に達し、支持体と絵画空間、物質の関係がわからなくなっている。
今回、丹羽さんは、色彩のついた正方形のトタン板をしわくちゃに折り、起伏に富んだ彫刻作品を出品している。そこには、薄いトレーシングペーパーが塗り込められた絵の具とともに、別の世界を開いてくれたように、まるで折り紙のように柔らかく見える。
ふと、小さな生き物にとっては、折り紙も人間のトタン板のような硬さなのかなとも思う。
設計図を描くわけではなく、かといって、全く勝手気ままというわけでなく、折り曲げたトタン板をフラットに戻してみて、また力を加えてみる。
折り紙のような質感、光の反射と陰影、ランダムなように見えて、造形された、そして偶然性もはらんだ美しい形態。
ZIPPOライターオイルの小缶をハンマーで潰した作品もある。ぺちゃんになったもの、小さく凝縮したもの、立っているもの、寝ているもの、うずくまっているもの、腰を曲げたもの、体をねじらせているもの・・・。
オイルの小缶が群像に見えるのが、とても面白い。プラスチックの赤い挿入口が頭に見え、人々が思い思いにたたずんでいるようだ。
ドラム缶をハンマーで極限まで叩き、変形させた作品もある。
ドラム缶なのだけど、もうドラム缶でない。へこんで、しなやかな流れを生み出し、その動きをせき止めるように、硬い尾根をつくって、こわばり、全く異なる存在感になっている。
丹羽さんの作品を見ていると、概念がまとっている意味、物に固着している用途、凝固した言葉を離れ、物の現れそのものに目を向けられる。
イマジネーションと言葉の跳躍、自由が促される気がする。
1つの紙が、木や水、酸素、二酸化炭素、太陽、雲、労働、機械、煙、蒸気、灰、熱などにつながっているように、事物が別の次元へとつながり、変化、時間を伴いながら永続すること、物体、物質、生体が滅びても別の形で存在すること、無常であるとともに永遠性を感じること——。
この「ドラム缶」もかつてはドラム缶でなかった。ドラム缶になって、いままだドラム缶でない何かになった。そんなことも思う。