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二藤建人 catch the air gallery N(名古屋)

gallery N(名古屋) 2020年11月14〜29日

 二藤建人さんは1986年、埼玉県生まれ。gallery Nで個展を続けている。2016年のあいちトリエンナーレでは、名鉄東岡崎駅ビルの会場に出品した。

 筆者にとっては、初見の作家だが、初日に開かれた豊田市美術館の能勢陽子学芸員とのトークが参考になった。

 彫刻家の中には、表現する内容だけでなく、彫刻とは何かという形式面を問い直すことで、自身の表現を強くする作家がいる。

 二藤さんも、「彫刻」の制作にあたって、それと深い関わりがある重力、あるいは重力への反作用としての反重力を読み直して、二藤さんならではの「彫刻」とする。

 二藤さんの説明では、制作に際して、科学的な進化に逆行するような「誤読」を身体が引き受けること、そうしたフィクショナルな想像力を駆使することが1つの方法論になっている。

 私たちの世代になると、美術で重力というと、1997年に 尾崎信一郎さんが企画した 「重力−戦後美術の座標軸」展が印象深い。

 モダニズム美術を重力という概念で読み直すこの展覧会では、米国と日本の戦後美術から多彩な作品が集められた。

 他方、豊田市美術館では、今回のトークを担当した能勢さんの企画で、2013年に、現代の非物質化、浮遊感、宇宙的なまなざし、SF的想像力、空間性を意識した「反重力展」が企画された。これら2つの展覧会の間に、世界や社会の変化、美術作品の変容も見ることができるだろう。

 こうした前提で、重力を背景に、「彫刻とはなにか」を等身大の感覚からユーモラスに提示する二藤さんの作品を見ていきたい。

二藤建人

 ギャラリー正面から見える作品では、単管パイプが組まれ、伸縮性のある赤い布がハンモックのように垂れ下がっている。赤い布の形には、人間のような体型が感じられる。

 妻が布の中に腰を沈め、そのおしりと背中を石膏で固めたのだという。腰を落とした妻がいなくなった後の何もない空間を石膏で埋め合わせたイメージと言えばいいだろうか。

 このように、二藤さんの作品では、家族がしばしば関わる。また、重力を可視化するという点では、これまでの流れにある作品である。

 ウキペディアによると、重力とは、その物体の質量によって生じる時空の歪みが他の物体を引き寄せる作用のこと、である。

 地球上の重力は、地表近くに物質がある限り、逃れられない。地球の条件が変わらない限り、そうである。

 二藤さんは、重力やそれに対するリアクションというコンセプトで制作している。

 物質である彫刻は重力とのつながりが強いし、「反重力」の作品にしても、重力があるからこそ、それに対抗しているという意味では、やはり重力の影響を受けている。

 物質である妻の身体も重力の作用を受けている。シンプルに言えば、それを可視化した作品である。

 伸縮性のある布なので、妻がいなくなれば、赤い布は元に戻る。それを石膏という代替物を使って静止状態にしているのである。

 一方で、これは、万有引力や、重力(引力に地球の自転による遠心力が関わっている)を、「あるべきところに戻ること」と定義している二藤さんの作品の本質も如実に示す。

 物質は、重ければ下の方に行き、煙など軽ければ上がっていく。妻は周囲の環境との関係で重いので、あるべきところ、本来、所属していた地表へ戻ろうとする。その身体性を空間の中で現した作品である。

 妻がいなくなれば、布は元に戻る。それが戻らないように、見えない重力を可視化しているのだ。

 映像作品も展示されていた。2つの映像が繰り返し、ループされている。

 1つは、パジャマ姿の二藤さん(展覧会初日も、映像作品と同じパジャマを着て現れた)が夢遊病者のように山中で、掃除機を使って、霧(空気)を吸い込もうとしている。

 もう1つは、物が散乱した自宅リビングで、二藤さんが同じ掃除機を手に甲斐甲斐しくきれいにしている。

 これらの映像作品も、一見関係のなさそうな「重力」「彫刻」を参照して見ると、ユーモラスで興味深い。

 二藤さんは、コロナ禍の中、山の中の新しい家に転居した。自宅で掃除をしている映像は、極度に散らかった新居を二藤さんが何食わぬ顔で掃除するだけの映像である。

 尋常でないほどの物の散乱に妻が悲しむ。何度片付けても、すぐ元に戻る。それは、自分の性質を変えようと思っても、なかなか変えられないのと同じである。

 先ほども書いた通り、二藤さんに言わせると、あるべきところへ戻ることが「重力」である。

 二藤さんと能勢さんのトークでは、シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」についても触れられた。

 物質は重力の作用を受ける。人間の精神も同様である。そのままだと、下の方へ、低い方へ引っ張られる。元の場所に戻ってしまう。重力の圏外にあるのは神の恩寵だけである。大まかには、そんな主旨である。

 自宅の掃除の映像で言えば、放っておけば、あるがままの方へ向かう重力から逃れられないから、部屋は汚くなる。それは、自然状態と同じである。汚い方へ、乱雑な方へ、散らかった「自然状態」へと近づく。

 二藤さんによると、結婚や家族との共同生活は、(素晴らしいことなのだけれど)できないことをしている(無理をしている)。だから、元に戻ろうとして、部屋も1人暮らしのときのように散らかってしまう。

 彫刻も、さまざまな物質の素材性、重力などが作用する中で、「不可能なこと」をしようとしている。

 ありのままの状態、すなわち自然のままのものに手を加えることで、言い換えると、元に戻ろうとするものをとどめようとすることで、不可視のものを見えるようにする。

 二藤さんの彫刻への考えは、こんな感じではないか。

 物質や空間に働きかけることで、見えないものを見えるようにすること。それは、反自然的なことだから、元に戻ろうとする重力との拮抗の中で、ある意味、できたものを受け入れるしかない。それが彫刻である、と。

 その意味で、彫刻は、とても人間的な行為なのである。

 この文脈でいうと、二藤さんが山中の霧を掃除機で吸い込んでいる映像も面白い。山の中で、とめどもなく拡散している霧(空気)を捕まえるのは徒労である。見えないものは捕捉できない。

 それは、コロナ禍での空気感、手応えのなさ、見えない対象に立ち向かえない空虚に対して、空回りしている状態をも象徴している。

 《catch the air》。空気を捕まえる。タイトルになっているけれども、これは困難なのである。

 トークの中で、確か、能勢さんからシモーヌ・ヴェイユに絡んで、こんな発言もあった。

 重力は生活、社会システムである——。 

 これは、喩えだろうが、「重力」は、人間が生きていく上で逃れることが難しい国家、社会の仕組み、慣習、制度、生活でもあるのだ。

 逆に言えば、「無重力」は、それらがない、不可能な「自由」のユートピアなのかもしれない。

 この映像作品は、世界を覆うコロナ禍の空気、制度の中で生きる人間、その拘束、依存と自由、自立など、さまざまなことを想起させる。

 このほか、部材を叩き割り、割れた断片を、あるべきところに戻すように向かい合わせた作品や、石膏に浸した繊維質を垂直に引き伸ばし、髪の毛が逆立ったように見せた反重力的な作品もあった。

 二藤さんは、物質がこの地球にあること、地表に人間がいること、それを包む空間を捕まえる術を、ある種、「誤読」ともいうべき素材の生々しさ、自分の身体的な接触や実感、家族の関係性や暮らしをさらけ出して、探求している。

 宇宙の中にあることの摂理を受け入れつつ、生きている実感とともに、触れること、関わること、そこに、一見、粗野に見えながら、注目すべきところがある。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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