YEBISU ART LABO(名古屋) 2023年6月2日~7月23日
西田麗良 NISIDA AKIRA
西田麗良さんは岐阜市出身。2018年に名古屋芸術大学美術学科洋画2コースを卒業した画家である。2019年に続いて2回目の個展。N-markのBLACK TICKETに2017年と2018年に参加している。
西田さんはのモチーフは人物である。クローズアップした顔や全身などさまざまで、眠っているように見える姿、体を横たえたように見えるものもある。
画面全体がとても淡い色彩で描かれ、ほとんど白に覆われている印象さえある。極限的な淡色だが、注意深く眺めると、しっかり描かれていることが分かる。
写真画像にすると、うっすらとイメージが見えるのだが、ギャラリーの展示空間で、肉眼で見ると、光の関係もあるのか、もっと見えにくい。かろうじて微かにイメージが分かるものもあるが、絵具の色彩がほんのりと見えるだけの作品もある。
また、写真にすると小さな作品に見えるかもしれないが、全体に作品は大きく、最大のサイズは横幅194センチ縦130.3センチである。
画面は大きいのに、表情までを明確に見ることはできない。そうしたもどかしさと繊細さがとても独特で、そして美しい。あえて、明瞭な存在感や表情を避けている感じがする。
思えば、私たちは、分からない相手を分かったように振る舞っていないか、見えない人の心を理解したように決めつけていないか、あるいは、自分は正しい、間違っていないという、危うい思い込みに染まっていないか。
社会が先にあって、一人一人の人間が、後から、社会の枠組み、解釈、意味性にあてはめられるという生きづらい存在性への抵抗、言い換えると、人と人の関係性への問いかけが感じられる、静かだが、魅力的な作品である。
「君は変わった。」
とても不思議な感覚である。画廊のホワイトキューブの空間で見ると、壁の白や照明のせいもあるのか、浮遊するようなイメージが、見えるか見えないか、もっと言うと、人がいるかいないかという、ぎりぎりの感覚、気配として感じられるのである。
薄い繊細なイメージを確認したとしても、筆者を含め、多くの人が最初は、人物を普通に描いた後に白い絵具で塗りつぶしたと思うはずである。筆者も最初はそう思った。
つまり、一見、白の下層からイメージが透過するように感じられるのだが、実際は、そうではない。ジェッソの下地の上に、絵具の層を重ねるように丹念につくりだした静謐な世界である。
作家に聞いたところ、絵具を薄く溶いて描いているわけでもなく、アクリル絵具に白を混ぜて色をつくりながら描いている。新しい試みとして、一部、色鉛筆を使った作品もある。
また、ジェッソを上から何層か重ねているが、下地も含め、ジェッソにも全体の色相に合わせ色を混ぜ、ほんのりと色をつけている。つまり、ほんのわずかだが、色が混じっていて、完全な白ではない(実際には、ほとんど白色に近いが)。
支持体は、パネルに綿布を張っているとのことである。角張ったパネルでなく、角を丸くし、手前に向け、側面が内側に傾斜している。
そのため、支持体の物質感が減じられ、作品が周囲に溶け込むような感じで、絵画がそこにあるのだということを強調しないようにしている。
それゆえ、展示会場を巡る中で、人物が不意に現れる、何気なく人物に遭遇するような感覚に導かれる。もっと言うと、確かに描かれた絵なのだが、それが強く出ると言うより、人がいる気配があると言う方が近いのである。
鑑賞者は、絵画を絵画として瞬間で把握すると言うより、気配から入り、ゆっくり感じていくように、この作品を見ていくことになる。
例えると、私たちが相手のことを知らないのに、分ったふりをするのではなく、相手の立場に自分を置き、相手からの目線を意識して、その人と気持ちを共感し合っていくように、ゆっくりと、相手を理解していくプロセスに近い。
人物をモチーフに、日常で誰もが体験しそうな場面、不安、心のうつろいや揺れ、感情の動きが描かれている印象だ。
この分からなさを受け取るには、時間を要する(それでも完全に分かることはできない)が、それは、人間の人間の関係、ひいては人間存在の難しさを経験することにも似ている。
そして、それは鑑賞者のこれまでの人生の場面、経験、記憶、心の襞に共振し、人間の分からなさ、言葉にできない感情、存在の震えのような感覚をも呼び覚ます。
この作家自身の繊細さ、豊かな感性を通して、私自身が外界への怖れから心に秘めた、内面のうつろい、揺らぎに気付かされる作品である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)