ケンジタキギャラリー(名古屋) 2020年6月13日〜7月22日
横山奈美展「誰もいない」
横山さんは1986年、岐阜県生まれ。愛知県立芸大大学院を修了し、現在は茨城県取手市を拠点に制作する画家である。キャリアを見ると、ここ数年で大いに注目度が高まっている感じで、現在、豊田市美術館で開催されている開館25周年記念コレクション展 VISION part1「光について/光をともして」にも、絵画作品《LOVE》やドローイングをインスタレーションにした「LOVEと私のメモリーズ」が出品されている。
なお、岐阜県美術館で2021年11月から2022年1月にある「アーティスト・イン・ミュージアム AiM Vol.11 横山奈美」については、こちら。
今回のギャラリー展示では、大きく4つのシリーズが、ギャラリーの1、2階に紹介され、見どころがある。
1つは、小さな木片に金色の物を描いた最新の絵画のシリーズ「ゴールデンオブジェクト」、2つ目に、自ら発注したネオンサインを描いた絵画シリーズ、そして3つ目が、使い捨ての役に立たない物を描いた絵画シリーズ「最初のオブジェクト」、もう1つが木炭で自画像のような少女を描いドローイング・シリーズである。
シンプルに見えながら、それぞれがよく練られた深い作品である。とりわけ、今回、4つ目に挙げた少女のシリーズは、同じ少女が芝生に同じ格好で横たわる姿を1週間にわたって毎日描いた7点の連作で、河原温のデイト・ペインティングを思わせる快作である。
これらの作品から、取るに足らない物への眼差し、価値とは何かという問いかけなど、一貫した主題性がギャラリー空間全体を包む。何が美しいか、何に価値があるのかを、既成の考えに縛られることなく思索し、絵画を通じて、「内なる美」「内なる存在意義」に気づかせる作品はシンプルながら深遠である。
(上部に蛍光灯が反射しています)
「逃れられない運命を乗り越える」
「最初のオブジェクト」は、日常的に消費され、見向きもされない物、捨てられる運命にある物をモチーフとして描く静物画のシリーズ。過去には、タバコの吸い殻、ブランド品の紙袋、フロッピーディスクなども描かれた。
今回は、トイレットペーパーの芯をモチーフに、「逃れられない運命を乗り越える」(2016年)と、「逃れられない運命を乗り越える I・II・Ⅲ」(2020年)の計4点が、1階に展示された。折れ曲がった同じトイレットペーパーの芯が角度を変えて4点描かれ、それぞれが259×194センチという圧巻の大作である。
(上部に蛍光灯が反射しています)
折れ曲がった1つのトイレットペーパーの芯を4方向から、まるで巨大な柱状構築物のように描く。板の上に置かれ、左から強い光を受けた芯は細部まで写実的に再現される一方、背景は抽象化され、巨大なモニュメントあるいは西洋の彫刻作品のように屹立し、強い陰影が強調される。どうでもいいものの最たるものであるトイレットペーパーの芯が巨大な彫像のように立つ姿は、横山さんの一貫したテーマである価値の転倒、価値の捉え直しを印象付けるものである。
何しろ、たかがトイレットペーパーの芯が、人間よりも大きな絵画となり、その細密な写実によって、モニュメントのように存在するのである。見る者は、日常では捨てられるだけの紙が自らの軽んじられた運命を乗り越え、彫刻のような存在感でたたずむさまに圧倒される。
この「最初のオブジェクト」シリーズでは、捨てられる寸前の物が画面の中で彫刻然と立つ姿が、どこか擬人化されているようで、横山さんに影響を与えたとされる岸田劉生の静物画「林檎三個」(1917年)をも想起させる。今回の作品を含め、このシリーズの、岸田劉生の「内なる美」を彷彿とさせる神秘性、ほのかに帯びる東洋的な雰囲気は、西洋近代絵画に憧れ、その展開を追いかけた日本の近代絵画が内在する問題への意識を、現代の画家である横山さんが相似形として反復しているところからにじみ出ているのではないか。
というのも、横山さんは、西洋で発展してきた絵画芸術と自分が油彩絵画を描くこととの距離、西洋と日本のはざまで描くこと、そのつながりと断絶にとても自覚的であり、西洋への憧れ、葛藤、挫折を受け入れることに意識的であったからである。自らサイ・トゥオンブリー、ヴィルヘルム・サスナルなど西洋に憧れつつ、劉生的な作風も取り入れる。
横山さんが、中高生のころ、米国のポップ歌手ブリトニー・スピアーズなど、なろうとしてもなれないブロンド髪の女性に対して抱いたコンプレックスはそのまま、西洋絵画への憧れと日本人である自身が描くこととのギャップと重なり、やがて、ダサい自分を受け入れ、そこに立脚して描くことで内在する美しさ、存在意義を問い直すというテーマへと接続する。
新しい現代絵画を目指しながらも、作品に岸田劉生のような日本近代絵画を反復する要素を込め、日本人である自分自身が絵画を成り立たせるための根拠をないがしろにしないことが、作品に豊かな背景を立ち上がらせている。
「逃れられない運命を乗り越える」と題されたこれらの大作は、乗り越えられない西洋絵画の連綿たる歴史に対する横山さん自身の1つの回答である。日常の些末な物、捨てられた物を主役に抜擢し、静物画として細密描写することで、横山さんならではの内なる美、根源的な美しさ、見出された価値を付与しているのである。
ゴールデンオブジェクト
昨年から始めたのが金色のオブジェを描く「ゴールデンオブジェクト」シリーズである。絵画でありオブジェのようでもある作品約70点が水平にインスタレーションとして展示されている。描かれたそれぞれの金色の物は、仏像や置物、玩具、部品、文具、日用品などさまざまで、用途も実際の価値も多様である。あえて、意味を持たせないように多彩な対象を集め、ランダムに脈絡なく配置している感じである。
全て自分で購入するなどして入手した金色の物を、形もサイズもバラバラの小さな木片に写実的に描いた。金そのものが高い価値を表象する中で、金色という共通点を除けば多種多様な物を同じ木板に置いて描くというコンセプトである。それらを描く支持体は、アトリエでの搬出入などに使う処分寸前の木材の断片といい、金色の物を写実的に描くことでイリュージョンを生み出しつつも、同時に粗末な木片という支持体が強調され、作品自体を絵画でありながら物体としても成り立たせることで、価値とは何かを問いかけている。
この連作でもそうだが、全てのオブジェクトの実物を前にして描くのが、横山さんの特徴である。実在する物を前にし、細部を見落とさずに内在する美を描くことで、価値そのもの、存在意義自体を見直すのである。さらに言えば、このシリーズでは、描くために自ら金色のオブジェを購入していることから、コストを反映した金色の実物は横山さんの手元にあり、描かれた作品はイリュージョンであり、木片である。これらの小さな作品は、金色をしたさまざまな物の美しさを表象しつつ、アートとして「価値とは何か」という命題をはらんでいる。
ネオンサイン
ネオンサインのシリーズも出品された。このシリーズも、実物のネオンサインを自ら発注し、実物の対象を前に描く。今回展示されたのは、「PAINTING」のカラフルな文字が浮かぶ作品と、窓枠形のネオンが光る「Window」2点の計3点。
このシリーズでは、美しく光るネオンサインだけでなく、むしろその背後にあって一般には切り捨てられる取付具、配線管に焦点を当てる。
ネオン管の光が、愛や夢、願望、理想などを表象するのに対し、その背後に隠された部分には、見苦しく不格好な「裏」がある。それは、一般には美しくない隠すべき構造であっても、確かにネオンサインの願望や夢を支える存在。横山さんの絵画では、光るネオンと同等に扱われている。
さらに、絵画のイリュージョンが支持体に支えられたイメージに過ぎないように、ネオン管の美しさは、取付具や配線管に支えられ、その絵画的イリュージョンが今度は支持体に支えられるという二重構造がある。そこには、やはり、価値とは何か、それはどこにあるのか、表象とは何かという問題意識と、内なる美や存在意義を絵画を通して考えたいという思いが見て取れる。
forever(day1〜day7)
(左下部に影が映り込んでいます)
横山さんには、木炭で自画像的な少女を描くシリーズがある。今回、出品されたのは出色。《forever(day1〜day7)》というタイトルが付いた7点組みの作品である。
左から右へと、一日1点ずつ描いた少女のドローイングの1週間分計7点が展示された。前の日に描いた作品を見て、その日の絵を描くというようにリレー的につながり、いずれも、芝生にずんどうな、いかにも日本人っぽい少女が両手を頭の下に敷いて横たわっている。
ブリトニー・スピアーズなど、横山さんが憧れた西洋のグラマラスな女性ではない。普段着で、野暮ったい外見。顔は無表情で、少しだけ足を開いた、くつろいだ姿勢。何もしておらず、美しさ、セクシーさにはほど遠いありようである。Tシャツには、意味深にforeverの文字がある。
表情や光の加減などがそれぞれ微妙に変化している。一日一点ずつ描いたそれぞれがその日に対応しているという点で、河原温のデイト・ペインティングのようである。1点1点が、かけがえのない生の痕跡であると同時に、横山さんの、そして作品を鑑賞する人の普遍的な存在と時間を想起させる。
横山さんの描く少女が、ただ寝そべっていることが興味深い。
意味のあること、他人から承認されること、価値があること、美しいと人に認められること、評価されることが、生きることなのか?
何もしないこと、何もできないこと、それでも、今、生きていることを明日につなげよう—。そんなメッセージを感じる。
河原温のデイト・ペインティングが、単色で塗ったキャンバスに白い文字で制作年月日だけを描くなど、クールで抽象的、それでいて、世界/存在への飛躍があるのに対し、横山さんの《forever(day1〜day7)》は、もっとベタで、「ダサい」横山さんが現れていて、そこが良い。
ダサい人が、ただ横たわっている。何もしない。そんな自分にも、一日の次にはまた一日がある。その無為な時間が尊く、永遠へと続く。
大事件、大きな出来事が記憶されるべきで、生産性のあること、意味のあること、美しく感動的なこと、偉業を果たすことが、人生なのか。
何もしないこと、できないこと、その時間の大切さ。ここで、横山さんは、人生の価値、生命の価値を問いかけている。取るに足らない出来事、ここにある一日の尊さを表現している。
何もしない一日を明日につなげる。民族や人種、宗教、貧富などを超え、あらゆる人を尊重する。仕事のない人、何もできない人、障害のある人、病気の人、評価されていない人の無為な一日。効率や生産性、有益性でなく、その生命の原初の美しさ、存在意義を見つめたいという思いがにじむ作品である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)