Gallery HAM(名古屋) 2025年3月22日〜4月26日
中條直人
中條直人さんは1960年、三重県生まれ。1985年、愛知県立芸術大学美術学部油画専攻卒業。名古屋市で制作している。
1980年代から、個展、グループ展で作品を発表。2004年には愛知県美術館・展示室6で企画展「中條直人—アプリオリ」、2009年には名古屋大学教養教育院プロジェクトギャラリー[clas]で「BEHIND」が開かれた。
Gallery HAMでは2022年に個展を開催。今回は3年ぶりの個展となる。
かつて、中條さんの絵画では赤色が重要な役割を果たしていた。彼にとっての赤色は、絵具の物質性、色面としての赤色であると同時に、描かれた赤い対象そのものでもあった。

それは例えば、自分の体の血がにじむ傷跡、臓器のような塊、ザクロの内部など、どちらかといえば、不気味なものである。赤く描かれた画面は、物質、色面、イメージ、そして指示対象にまたがるものとして鑑賞者に作用した。
節目となった2004年の「中條直人—アプリオリ」では、自分の身体と赤い傷跡が描かれたが、この「アプリオリ」というタイトルから分かるように、中条さんの作品は人間の認識を巡って展開していた。
この頃から、クローン、遺伝子への問題意識も加わった。以後、作品に裸の乳幼児のイメージが現れ、さらには、明確に自らの子供(長男、次男)という主題が前面に現れてくる。

そして、赤色が、以前のように、傷跡や臓器、ザクロのような明瞭な具象物と対応せず、鑑賞者にゆだねる現れ方をするように変化する。
子供を描いた作品は、どこかノスタルジーを感じさせるところもあったが、そこに筆者が感じたのは、むしろ、大人の概念、意味の世界を離れた無分別智のような世界である。言語による分別作用を超えた世界観、実感、主観と言ってもいいだろう。
それは、中條さんが長年、テーマとしてきた、アプリオリとアポステリオリを巡る問題や、認識論、人間とは何か、生命とは⋯という関心領域にも関わっている。

“21” 2025年
今回、中條さんは、ダウン症である16歳の次男のことを初めて明確に作品化している。ダウン症は「21トリソミー」と言われ、21番目の染色体が通常より1本多い3本ことから発現する。
画面に染色体や次男の姿が描かれているため、作品の主題を図式的、説明的に障碍やダウン症と捉える向きがあるかもしれないが、それは違う。
人間は、自分自身が直面しないと真に真摯に、純粋に生きられないことがある。中條さんは次男の存在に心の深いところから向き合うことを通じて、画家として、どのような内容を描くのか、どのような形式で描くのかを含め、創造することが子供のことと一体化していったのだと思う。

一般的な大人は、常識の世界、意味、概念、解釈の世界で生きている。実証性、客観性、分別智の世界である。
中條さん自身がステイトメントに「固定観念や価値観が崩壊した」と書いているのは、まさに無分別智の世界に寄り添うようになったのである。
つまり、中條さんは、心に柔軟な、どこまでも広い余白をつくらないと生きてはいけなくなった。常識的な大人であるかつての自らの世界モデルから、子供の世界観、障碍のある次男の世界観に近づいたのである。
次男を起点に、アーティストの中條さんがその存在感や現象、人間やいのちについて、自分と次男とを行き来しながら、ありのままに捉えようとしている。

それは、人間でありながら人間を超えた宇宙、生かされているいのちの尊厳、分からなさに気づくことでもある。
例えば、次男の表情をモチーフにした作品、その世界観を描いたようなイメージ、あるいは、中條さんが次男の描いた線をなぞるように制作した作品などが出品されている。
今回最も惹かれた作品は、「宿命」という縦長の大作(写真下)である。人の形のようにも見える塊は、多彩な絵具の物質性もあらわに複雑で混沌としていながら、森羅万象を想起させ、宇宙のうつろいと無常、全てのつながり、縁起、喜びと美しさをはらんでいる。
そして、どこか秩序、希望と尊厳を感じさせる形象である。子供への深い思いと絵画として成立させることとが結び合う、人間観照の実験でもある。

次男という生命、その実在、彼が生きる物語に参加し、絵画という制度、形式を相対化しながら描いている。これは次男と中條さんのコラボーレーションとも言えるし、絵画をめぐる冒険だともいえる。
二元論に陥ることを避け、分からないままにありのままに見て、人間の高慢さ、ジャッジを戒め、いのちの意味を問いかけている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)